挫折と暗殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 14:34 UTC 版)
産業界や銀行、そして王党派の官吏や法曹の抵抗もあり、アイスナーの社会主義化政策は実現されなかったが、それでも一日8時間労働や婦人参政権などを実現した。アイスナーはまた、保守層の拠り所となっているカトリック教会からも反感を買い、枢機卿は「神の怒りを買う」と非難した。外交政策では分離主義的志向をもっており、オーストリアやチェコスロバキアとの地域連合を理想とし、またヴァイマル憲法の発効もまず各州の住民投票を経てからにするべきだと主張した。しかしいずれも政府内の反対で実現しなかった。また連合国に独自の使節を送ったためドイツ国暫定首相フリードリヒ・エーベルトと対立し、また民族主義者らに「裏切り者」と非難され敵視されるようになる。 一方でアイスナーは左翼からも批判された。1919年1月、ドイツ共産党は失業者4,000人を動員してミュンヘンの社会省を占拠しようとしたが、警察に阻止され死者3人負傷8人を出して失敗した。アイスナーは共産党指導者らを逮捕させたが、デモ隊の圧力で釈放せざるをえなかった。共産党や無政府主義者は選挙のボイコットを呼びかけた。右翼から革命指導者とみられていたアイスナーは、共産主義者からみれば日和見主義者に過ぎなかった。左右の板ばさみになったアイスナーの意思や能力を疑う声が広まり、1919年1月12日に行われた選挙で、アイスナーを「ユダヤ人のボリシェビキ」と個人攻撃したバイエルン人民党が得票率35%で第一党、33%を得た社会民主党が第二党となった。アイスナーの独立社会民主党はわずか2.5%という惨敗に終わり、アイスナーは辞任を余儀なくされた。 2月21日、議会での辞任表明に向かう途上のアイスナーは、トゥーレ協会に属する学生と右翼将校アントン・グラーフ・フォン・アルコ・アオフ・ファーライの襲撃を受け、頭と背中に銃弾2発を受け即死した。護衛の警官に撃たれ瀕死の重傷を負いながらも生存した犯人のアルコ=ファーライは、襲撃の理由を「アイスナーが連合国に秘密裏に通じていた」ためと供述している。直後に革命派の青年が復讐と称して右派の議員や社会民主党代表を襲撃し、議会はパニックに陥り政局は大混乱に陥った。穏健派のアイスナーの死によりミュンヘン革命は先鋭化し、極左勢力によるレーテ共和国樹立、そしてその反動である右派義勇軍による復讐へと発展していくことになる。
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