幕府の天明の打ちこわし再発防止への取り組み
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「天明の打ちこわし」の記事における「幕府の天明の打ちこわし再発防止への取り組み」の解説
天明の打ちこわしの結果、政権の座に就くことが可能となった松平定信は将軍の権威が失墜したことを認め、「戦国よりも危うき時節」と評し、危機感を露にして改革に取り組むことになった。松平定信政権は激しい打ちこわしを起こした総責任者と目された田沼意次に対して、更なる厳罰を下すこととした。天明7年(1787年)10月には、これまで2万石が没収され3万7000石となっていた田沼の所領及び相良城を没収し、永蟄居を申し渡した上で、嫡孫田沼意明に1万石を与え、辛うじて大名家としての存続を認めるという措置が言い渡された。そして田沼が建設した相良城は翌天明8年1月から2月にかけて破却されるという念の入れようであった。これは田沼意次を厳しく断罪することによって、老中になったもののまだ政治基盤が安定していなかった松平定信の政権基盤を安定化させる目的があった。このため寛政の改革開始当初、田沼意次を痛切にあてこすったり、天明の打ちこわしを風刺した内容の黄表紙などが盛んに出版されたが、これは松平定信政権に対しての民衆の支持を高めるものと判断され、黙認された。 天明8年1月26日(1788年3月3日)、天明の江戸打ちこわしの際に先手組に認めたように、これまで個々のケースを判断して認めてきた一揆、打ちこわし勢への切り捨て容認を、これからは全国で発生した一揆、打ちこわしで状況に応じて認めることとし、また一揆や騒動が発生した場合、近隣の大名や幕領の代官らは速やかに介入して鎮圧するよう強調するなど、これまでのものよりも厳しい一揆禁止令を公布した 。 しかし天明の打ちこわしの背景には都市下層民の不安定な生活、そして疲弊した農村から都市へ多くの人々が流入するといった社会問題、また米価高騰の一因となった通貨政策の問題などがあった。松平定信政権は一揆や打ちこわしの弾圧策ばかりではなく、都市政策、農村政策、そして通貨政策などに取り組み、問題の解決を図った。まず都市政策としては都市住民の帰村を促す旧里帰農奨励令 、飢饉時などのための七分積立金令の公布、そして無宿人への授産を目的とした石川島人足寄場の設置などという政策が実施された。 そして田沼期に進んだ特権商人と幕府役人との癒着を問題視し、不正に手を染めたと見なされた幕府役人の大量処分を行い、また各地の幕府代官への統制を強め、関東の伊奈家、飛騨の大原家など、不正を放置したとされた多くの代官を罷免した。 また農村問題への対応としては、帰農手当、困窮農民救済手当など、年利約一割の貸付制度を創設して本百姓体制の再建を図り、農業従事者の確保、そして荒廃した農村の再建により耕地面積の回復を目指した。また代々村役人を勤めた家柄の者であってもたやすく村役人としてはならず、能力のある適任者を村役人とすべきとの指示を出し、村の体制からも農村の再建を進めることを目指した。先述した不正に関わった幕府代官の大量処分もまた、農村再建策の一環であった。 通貨政策としては金相場の高騰、銀相場の下落をもたらしたとされた南鐐二朱銀の鋳造を中止し、丁銀の増鋳に踏み切っている。しかし松平定信政権は田沼が進めた計数貨幣としての銀貨発行により金、銀相場の一体化を目指す政策を全否定したわけではなく、金銀相場の不安定性の一因となった江戸、大坂、京都の三都に集中した南鐐二朱銀の流通状況改善のために、地方では逆に南鐐二朱銀流通を促進する施策を取った。その結果、寛政4年(1792年)から5年(1793年)になると、公定レートである一両銀60匁付近に相場が安定するようになった。
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