鎌倉幕府への元寇との関係性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 03:19 UTC 版)
「モンゴルの樺太侵攻」の記事における「鎌倉幕府への元寇との関係性」の解説
1264年から84年にかけて、元によるアイヌ攻撃が20年も中断しており、その間に鎌倉幕府に対する元寇(文永の役・弘安の役)が行われたこともあり、九州遠征に女真人を動員したために「北からの蒙古襲来」が中断したとする考えがある。しかし、当時の元側の地理認識では、日本本土は実際の位置よりかなり南方にあると捉えられており、樺太と日本本土の地理的つながりについての知識が元側にあったとは思えない。元・明代の地図に樺太が描かれた例はなく、初めて樺太が中国の地図に描かれたのは清代中期1719年の『皇輿全覧図』であった。北海道(蝦夷地)に関してもほとんど認識されておらず、南宋代の『仏祖統記』に載せた地図では、蝦夷が日本よりも南に位置しているなど、地理認識の不正確さを物語っている。 戦争の発端についても、モンゴル(元)側からの外交使節を日本(鎌倉幕府)側が服属を拒絶したことがきっかけとなった元寇に対し、モンゴル・アイヌ間戦争の場合は、はじめにアイヌ側からニヴフへの侵攻があり、モンゴルにとってニヴフの訴えを採り上げて行った防御的措置にすぎなかった。このため元による樺太遠征は、日本への攻撃と関連性を持っていたとは言い難い。以上により、この一連のモンゴルによるアイヌ攻撃を「北からの元寇」と呼ぶのは正確ではない。ただし日本側の史料では、モンゴルのアイヌ攻撃を一つの契機として60年にわたる内乱に及んだ安東氏・蝦夷の反乱(安藤氏の乱)を、元寇と並ぶ国難と見なす考え方が存在した。その意味では「もうひとつの蒙古襲来」ということもできる。
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