鎌倉幕府倒幕と村上氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:16 UTC 版)
鎌倉時代末期の村上氏の当主村上信泰は、祖先が承久の乱に参陣しなかったことが響いて、幕府内では忘れ去られた存在であったとされる。歴代の村上氏は鎌倉幕府に対して恩顧の意識はなく、逆にその勢力を認めない幕府に対して不満を募らせていたと思われる[要出典]。一族の村上義日は、元弘元年(1331年)の元弘の乱が起こると、後醍醐天皇皇子の護良親王に従い、元弘3年/正慶2年閏2月1日(1333年3月17日)に吉野城の戦いで、次男の義隆と共に戦死した(『尊卑分脈』)。義日は『尊卑分脈』の簡潔な記述以外はほとんど確たる情報がないが、軍記物語『太平記』では義日をモデルにしたと思われる「村上義光」という人物が登場する。「村上義光」は、護良に従って十津川、吉野、高野山などを転戦して2年にわたり幕府軍と戦い続け、元弘3年(1333年)幕府軍に追われ吉野から逃亡する際には、護良親王の身代わりとなって腹を切り、子の義隆も、同じく吉野でしんがりをつとめて討ち死にしたと描写される。明治時代に神格化され、鎌倉宮村上社の主祭神となった。
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