古麓城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 05:41 UTC 版)
古麓城(ふるふもとじょう)は、熊本県八代市古麓町(旧 肥後国八代郡)にあった諸城の総称、近世に名付けられた城塞群[2]。古麓町の東側の山中に7城(曲輪)が存在したと一般に言われている[3]。
- ^ a b 平成26年3月18日文部科学省告示第30号。指定区域には、麦島城の瓦を製造していた平山瓦窯跡(八代市平山新町)も含まれる。
- ^ 児玉幸多, 坪井清足, 平井聖, 磯村幸男ほか 1979, p.328
- ^ a b c 児玉幸多, 坪井清足, 平井聖, 磯村幸男ほか 1979, p.329
- ^ 名和顕忠によって、寛正6年(1465)に建立された名和氏の氏神を祀る「鰾神社」がある。
- ^ 同じく八代城と呼ばれる三つの城であるが、築城地は全く異なり、連続性はない。それぞれ廃城された後、別の場所に一から築かれている。
- ^ 一族らしいが、人物不明。
- ^ 『菊池軍記』には一色道猷もこの時に死んだとあるが、これは誤伝。人物の取り違えか。
- ^ 熊本県八代市奈良木町にあった。現在の奈良木神社の近く。古麓城との位置関係は球磨川の対岸にあたる。
- ^ 付城とも言う。敵対する側が、攻囲する城の近くに築城する見張りや防衛のための城。
- ^ 古麓の西、萩原町にあったと推定されるが詳しい所在地は不明。
- ^ 時期について異説あり。
- ^ 飯盛城の対岸、豊原上町。高田御所のそば。
- ^ 九州でのみ引き続き南朝の元号が使われた。
- ^ 座標は城趾の残る新城の位置を示した。
- ^ 鶴嶋俊彦「鷹峯城再考」稲葉継陽 他編『中近世の領主支配と民間社会』熊本出版文化会館、2014年.
- ^ 熊本県八代郡宮地国民学校 1941, p.79
古麓城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 15:27 UTC 版)
詳細は「古麓城」を参照 古麓城(ふるふもとじょう)は、八代市古麓町の東側の山岳にあった南北朝時代から戦国時代にかけて築かれた城塞群で、南朝方の重要拠点であった。八代には一時、征西府、高田御所(こうだごしょ)が置かれ、その名残りとして懐良親王御墓がある。中世で八代城といえばこの古麓城をさした。城塞は7つの山城であり、名和氏が築いた五城と、相良氏が築いた二城に分かれる。戦国大名相良義滋の居城であった鷹峯城も後者の一つ。貿易港徳淵津 (徳渕津)の発展もこの頃のことである。相良氏はその後島津氏に屈し、さらに島津氏は豊臣秀吉の九州征伐を受けた。その後に肥後国を領した佐々成政は、肥後国人一揆を引き起こした責により翌年改易・賜死となるが、球磨郡を除く肥後国は加藤清正と小西行長が半国ずつを領することになり、この時に古麓城は廃城となった。
※この「古麓城」の解説は、「八代城」の解説の一部です。
「古麓城」を含む「八代城」の記事については、「八代城」の概要を参照ください。
- 古麓城のページへのリンク