霊山出発と鎌倉攻略
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延元2年/建武4年(1337年)1月、父の北畠親房から伊勢へ来援する文書が送られた。同月8日、顕家は国府を霊山(福島県相馬市および伊達市)の霊山城に移した。 同じ頃、後醍醐天皇からも前年12月に送られた京都奪還の綸旨が届き、勅命を受けた顕家は25日に奉答書を送った。その中で顕家は、「霊山城が敵に囲まれており、なおかつ奥州が安定してないので、すぐに上洛はできない。脇屋義助と連絡を取り合っている」と返答している。 8月11日、顕家は義良親王を奉じて霊山城を発ち、上洛するために再び南下した。軍記物『太平記』では、このときの軍勢は奥州54郡から招集され、その兵数は10万余騎であったと描かれた。 8月19日、顕家軍は白河関を越えて下野に入ると伊達行朝、中村経長の軍を中心に、12月8日には足利方の小山城を陥落させ、小山朝郷を捕えた。顕家は足利方の大軍を、12月13日に利根川で(利根川の戦い)、12月16日に安保原でそれぞれ破った(安保原の戦い)。遂には北朝方にいた宇都宮公綱も顕家軍に加わった。 12月23日、顕家率いる軍勢は鎌倉を攻撃、翌24日までにこれを攻略した。この際、斯波家長は討ち取られ、足利義詮・上杉憲顕・桃井直常・高重茂らは鎌倉を捨てて房総方面に脱出した。鎌倉を陥落させた顕家軍には新田義貞の息子新田義興、さらには北条時行が合流するなど勝ちに乗じて膨れ上がった。『太平記』の物語では、関東一円から顕家のもとに軍事が馳せ参じ、その数は50万に上ったと描かれているが、これは誇張であると考えられる。いずれにせよ、顕家の軍勢は大軍であったことには変わりなく、顕家は勢いに乗じて鎌倉から西上を開始する。 『太平記』の物語では、顕家の軍は徹底的な略奪を行いながら行軍し、顕家軍が通った後には人家どころか草木も残らなかったと描かれている。同物語では、「これらの行動を恥知らずの夷の軍勢であるから」と批判的に描写されている。霊山包囲などの苦境からの出撃により物資が絶対的に不足していたという事情が反映されたと伺われる。
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