霊山出発と鎌倉攻略とは? わかりやすく解説

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霊山出発と鎌倉攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 10:19 UTC 版)

北畠顕家」の記事における「霊山出発と鎌倉攻略」の解説

延元2年/建武4年1337年1月、父の北畠親房から伊勢来援する文書送られた。同月8日、顕家は国府霊山福島県相馬市および伊達市)の霊山城移した。 同じ頃、後醍醐天皇からも前年12月送られ京都奪還綸旨届き勅命受けた顕家は25日奉答書送ったその中で顕家は、「霊山城が敵に囲まれており、なおかつ奥州安定してないので、すぐに上洛できない脇屋義助連絡取り合っている」と返答している。 8月11日、顕家は義良親王奉じて霊山城発ち上洛するために再び南下した軍記物『太平記』では、このときの軍勢奥州54郡から招集され、その兵数10万余騎であった描かれた。 8月19日、顕家軍は白河関越えて下野に入ると伊達行朝中村経長の軍を中心に12月8日には足利方の小山城陥落させ、小山朝郷を捕えた。顕家は足利方の大軍を、12月13日利根川で(利根川戦い)、12月16日安保原でそれぞれ破った安保原の戦い)。遂に北朝方にいた宇都宮公綱も顕家軍に加わった12月23日、顕家率い軍勢鎌倉攻撃、翌24日までにこれを攻略したこの際斯波家長討ち取られ足利義詮上杉憲顕桃井直常高重茂らは鎌倉捨てて房総方面脱出した鎌倉陥落させた顕家軍には新田義貞息子新田義興さらには北条時行合流するなど勝ちに乗じて膨れ上がった『太平記』物語では、関東一円から顕家のもとに軍事馳せ参じ、その数は50上った描かれているが、これは誇張であると考えられるいずれにせよ、顕家の軍勢大軍であったことには変わりなく、顕家は勢い乗じて鎌倉から西上開始する『太平記』物語では、顕家の軍は徹底的な略奪行いながら行軍し、顕家軍が通った後には人家どころか草木も残らなかったと描かれている。同物語では、「これらの行動恥知らずの夷の軍勢であるから」と批判的に描写されている。霊山包囲などの苦境からの出撃により物資絶対的に不足していたという事情が反映されたと伺われる。

※この「霊山出発と鎌倉攻略」の解説は、「北畠顕家」の解説の一部です。
「霊山出発と鎌倉攻略」を含む「北畠顕家」の記事については、「北畠顕家」の概要を参照ください。

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