霊山の参詣曼荼羅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 22:56 UTC 版)
参詣曼荼羅は西国三十三所以外の霊場や寺社でも多数作成されている。なかでも立山曼荼羅は那智参詣曼荼羅の36点をしのぎ、48点の作例が残されている。立山には岩峅寺及び芦峅寺の2ヶ寺が信仰登山集落を形成していたが、立山における宗教的権利をめぐり相論を繰り返した後、正徳元年(1711年)の加賀藩公事場奉行による裁定で岩峅寺が権利を独占するに至って、芦峅寺は加賀藩領国内外での廻壇配札活動のみに依存するようになった。こうした背景のもと、芦峅寺は立山曼荼羅を作成しては各地の檀那場へ持ち運んでは絵解きを行っており、裏書などから作成年代が分かっているものは全て19世紀以降の作である。 那智参詣曼荼羅と比較すると、多数が作成されて遺存すること、参詣を勧誘することを目的とし、参詣者と宿坊経営者である御師との間に師檀関係が結ばれていたことといった共通点がある一方、那智参詣曼荼羅と異なり立山曼荼羅の構図が多様である点で相違する。立山曼荼羅の諸本の構図は多岐にわたるが、系統分類上、芦峅寺の衆徒が使用していた芦峅寺系の作品、岩峅寺の衆徒が使用していた岩峅寺系の作品、そのどちらにも属さない作品に分類される。岩峅寺系とその他系の作品は、芦峅寺系の作品の模倣から生まれたと考えられるが、構図には違いが見られ、それぞれの勧進活動や宗教儀礼の展開が違いを生んでいる。また、立山曼荼羅は、白山、富士、北野社、吉野といった霊場の参詣曼荼羅とならんで本地仏や垂迹神を描く点で特徴的である。こうした本地仏や垂迹神を描く参詣曼荼羅のうち、立山、白山、富士は三山禅定として往来されていた霊山であり、特定の限られた集団内での使用を企図していた可能性が指摘されている。
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