霊場と参詣道の図像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 22:56 UTC 版)
「社寺参詣曼荼羅」の記事における「霊場と参詣道の図像」の解説
霊場が霊場であることの条件のひとつとして不変性があり、霊場と霊場に至る参詣道はしばしば今日に至るまでそのまま残されている場合さえある。霊場の不変性は理念的にそうであるというだけでなく、寺社が戦乱のような人災や落雷・豪雨のような自然災害によって損なわれると、あるべき理想の姿の復元を目指して再興が企図される。このように霊場が過去も現在も変わらぬ姿を保っているという意味において、参詣曼荼羅はかなり正確に作られている。このように霊場の不変性という思想に従えられている限りにおいて、霊場の描写は作成当時の姿を描いているとは限らず、過去あるいは未来の理想としての姿を描いている場合がある。 例えば那智参詣曼荼羅に描かれる青岸渡寺は、織田信長の兵火にあって焼失した後、天正15年(1735年)6月に現在地に柱立を行っている。しかし、那智参詣曼荼羅の図像は変更されることは無く、天正15年6月以前の位置に青岸渡寺は描かれ続けた。清水寺参詣曼荼羅では五条橋に同種の描写がなされている。清水寺参詣曼荼羅として伝来する2つの作例は16世紀半ばから後半からにかけての作と見られている。同時期の洛中洛外図の各種の伝本には五条橋は大振りの橋脚を持った姿で描かれる一方、清水寺参詣曼荼羅のいずれの作例においても五条橋は赤い欄干と金の擬宝珠を持つ姿で描かれており、あるべき理想的な姿として表現されている。寺外の事物であるにもかかわらず、五条橋は現実よりはるかに美化されているというだけでなく、大きなスペースを与えられて描かれている。これは、洛中洛外の境界であることや清水寺参詣の出発点であるということもさりながら、清水寺本願たる成就院がその維持・管理にあたっており、特別な意味を持っていたためであろう。このように、霊場の描写は、霊場の不変性を原則としているのであるのである。しかしながら、このように不変の姿で描かれるのは、あくまでも霊場にとって本来の姿において存在した地物に限られている。清水寺参詣曼荼羅に描かれている朝倉堂は、清水寺再建を担うために後から入ってきた本願の堂舎であって、今日とは立地も堂舎の姿も異なっており、不変の姿を保った訳ではなかった。 参詣道と霊場は異質な空間であって、その描写の仕方は異なっている。那智参詣曼荼羅では那智浜(浜の宮)と大門坂の間は地図と見比べると大幅に圧縮されていることが分かる。霊場を一図に収めることや、堂舎を南面させて描こうとするために、絵図全体の距離や方位には歪みが生じ、特に距離をデフォルメするために雲と霞で空間を仕切る技法が見られる。雲と霞はまた、その向こうへの観る者の想像力を喚起する。天橋立の描写を含む成相寺参詣曼荼羅では天橋立が折り曲げられて内海が狭く表現されていることが目を引く。また、施福寺参詣曼荼羅では、大阪湾海中から現れた千手観音が画面左下に描かれ、海岸との20キロメートル近い距離が圧縮されているほか、清水寺参詣曼荼羅では鴨川が流れてくる方向が90度曲げられて、あたかも東から流れてきているかのような描写がなされており、堂舎の描写と同じく方位に歪みが生じている。霊場と参詣道では前者の重要性がはるかに大きく、主役はあくまで霊場である。地物であっても霊場内の地物の描写に立ち入って見ると、大きな圧縮や歪みを受けることなく表現されることが普通であり、霊場の描写は、それぞれの地物が霊場においてどのような役割を果たしているのかという、信仰的な案内となっている。以上のように、霊場の聖域を大きく細密に描き、参詣道は圧縮して描くことが原則なのである。 同じように霊場を描くとは言え、寺院と神社、また霊山では描写の仕方はかならずしも一様ではない。熱田社・多賀社のような神社の参詣曼荼羅では、門前町や境内の描写に比べて参詣道の描写は粗略である。そうした相違は、寺院が西国三十三所のように諸国を周回する周回型の参詣者たちを主たる勧誘の対象としたのに対し、神社が単一の聖地へ往還する往復型の参詣者を対象としたという、参詣者勧誘のあり方における相違を反映したものと考えられている。富士山や立山のような霊山の参詣曼荼羅は神社と近い性格を持つが、聖性の頂点である霊山を上部に配し、下部に向かうにつれて聖性の低い地物が配されるという、図式的な空間構成を持っている。
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