鎌倉府との戦争、最初の断絶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 00:14 UTC 版)
「小山氏」の記事における「鎌倉府との戦争、最初の断絶」の解説
詳細は「小山氏の乱」を参照 氏政の跡を子の義政が家督を継ぎ、下野守護職になったが、下野で小山氏と互角の勢力を築き対立していた宇都宮氏の宇都宮基綱と争い、鎌倉公方足利氏満から内戦中止の命令を受けたが、それに従わず河内郡裳原の戦いで基綱を討った。しかし、これは私闘とみなされ、関東地方の治安を任された鎌倉公方足利氏満はこれを放置するわけに行かず、小山氏追討を諸将に命じた。これが小山氏の乱の勃発である。 この乱は、独立性の高い伝統的な豪族である小山氏が、氏政以降、所領を拡大して勢力を強めた事が小山氏の増長を生み、東国に新秩序を構築し支配基盤を確立しようとしていた鎌倉府の方針を軽視することにつながった結果といえる。義政は鎌倉軍に対して徹底抗戦したが、永徳2年(1382年)櫃沢城を落とされた義政は自害して果てた。義政の死後、子の若犬丸(小山隆政)がしばらく抵抗したものの敗れ消息不明となり、隆政の子も蘆名氏により捕らえられ鎌倉に留送中に三浦の海に沈められ、平安時代以来の下野国に君臨してきた小山氏宗家は断絶した。
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