旧「浦和市」域(桜区・浦和区・南区・緑区)
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古くは調神社や玉蔵院の門前町であったが、現在の街は旧中山道の浦和宿が設けられたことに端を発する。県庁、市役所をはじめ地裁や県警など、県や市の行政機関の集積とともに、県指定金融機関である埼玉りそな銀行の本店や各種政党の支部、各種メディアの支局など県都としての機能が集積し、浦和・大宮・与野の旧3市が速やかに合併協議に入ることを促した合併促進決議やさいたま市発足時の都市計画マスタープランで「行政の中心」として位置付けられている。また、明治時代に旧制浦和中学(現・県立浦和高校)と浦和高等女学校(現・県立浦和第一女子高校)、大正時代に旧制浦和高校(現・埼玉大学)が設置され、文教都市として知られるゆえんとなった。関東大震災以降、東京などからの移住者で人口が急増し、別所沼周辺に画家が移住したことから「鎌倉文士に浦和画家」という言葉が生まれ画家の街として知られる。明治期に埼玉師範学校(現・埼玉大学)でサッカーの指導が始められると、隣接していた旧制浦和中学と共に「埼玉サッカー発祥の地」とされ、サッカーが盛んな地域として全国的に名を馳せ、1993年のJリーグ発足時には浦和レッズが浦和市をホームタウンとして活動して現在に至っている。市域で最も東京都心に近く、通勤電車の本数も多いことから、1995年には川口市を抜き県内最大の人口を擁する都市となり、2021年時点でもさいたま市を構成する旧4市で最大の人口を擁する。浦和市時代から世帯所得は全国的にみても高く、浦和駅西側の台地上(岸町・常盤・高砂・神明・別所など)は高級住宅街としても知られる。
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