関東大震災以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 07:29 UTC 版)
関東大震災時、初音町辺りの1丁目から3丁目までは一直線に地割れが走った。当時、末吉橋を湘南電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)が通る予定であったため、その下が空地になっていた。近所の銭湯のそばの水道管が破裂し水が湘南電気鉄道の空地に流れ、まるで川のようになった。火災が発生し、逃げ場がなくなった人々はつぎつぎに空き地に逃げてきたが、400人もの人々が折り重なって死んだ。 初音町・日ノ出川界隈は震災後、家並みがガラッと変わる。日ノ出町2丁目の山側にある「子の(ねの)神社」は震災前は黄金橋の川っぷちにあり、土手に松がなびいてとてもよいお宮であった。震災後の復興で道路網整備と土地区画整理事業が行われ、かつて「陣屋の原」と呼ばれた原っぱだった現在の場所まで約150メートルほど移動した。横浜市立東小学校の辺りは、元はダラダラの坂で、上の方には金持ちが、下に降りるに従ってそうでもない人達という具合に住んでいた。震災ですっかり焼け、その後学校を建てることになり土地を平らにした。東小学校の前にある公務員合同宿舎は横浜で有数の資産家で貴族院議員の上郎清助のお屋敷跡であり、道が狭かったため金力に物を言わせ太い道に直したという。 1930年(昭和5年)4月に湘南電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)の黄金町駅が開業。黄金町 - 浦賀間で営業運転を開始した。開業当時駅前に賑やかさはなく初音町通りの方が賑やかであった。翌1931年12月には黄金町 - 日ノ出町間が開業し、京浜電気鉄道と連絡 横浜駅への乗り入れを果した。さらに1933年4月には品川 - 浦賀間で京浜電気鉄道と相互に直通運転を開始した。日ノ出町駅前は砂利が敷いてあり原っぱであった。太田陣屋の由来が書いてある木製の三角形の札が立っていたという(1859年(安政6年)の横浜開港の際、横浜の警備を命じられた越前福井藩主松平越前守茂昭が越前陣屋(太田陣屋)を置いた所である。) 1945年5月29日午前の横浜大空襲で黄金町駅付近一帯は一番の人身の被害を受けた。黄金町駅では上下電車の到着と同時に空襲警報が発令され、多くの地域住民も周囲の建物が疎開で取払われたこともあり乗客乗務員と共に鉄筋コンクリートで覆われた高架線下に退避していた。付近では戦闘機が低空で機銃掃射を繰り返し、逃げ惑う人々が吸い込まれるように高架下に身を隠した。そこへ不幸にも焼夷弾数発が命中し、焼夷弾炸裂と同時にホームから地上に向い火砕流が発生した事から600名以上の犠牲者が出た。 駅周辺は強制疎開で大きな広場ができていたことから 付近一帯の死体が運び込まれたため、終戦後、供養のため地蔵尊が駅前に建立された。この地蔵尊は駅前開発の際に福智山普門院不動寺(南区西中町)に移設されている。
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