関東大震災前後
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「ナデジダ・パヴロワ (1905年生のバレエダンサー)」の記事における「関東大震災前後」の解説
日本でバレエが注目される契機となったのは、1922年に行われたアンナ・パヴロワの日本公演であった。エリアナの教室でもバレエを習う人が増え、ナデジダもエリアナと一緒に指導にあたっていた。 異郷日本での生活にもなじみ、一家は充実した生活を送っていた。その平和な日々は、1923年に突如として暗転することになった。同年9月1日、エリアナは母ナタリアと連れ立って横浜正金銀行に出かけていた。ナデジダはメイドとともに2人で留守番を務めていた。突如として「ドシーン」という激しい音と衝撃が彼女を襲い、続いての激震に木造の家は揺れ動き軋んで、やがて崩れ落ちた。一瞬のできごとに逃げ出すこともかなわず、ナデジダは家の下敷きになってそのまま気を失った。 足の激しい痛みで意識を取り戻したナデジダは、左の足首が「90度」右回りしていることに驚いた。どうにか瓦礫の中から足を力任せに引き抜いたところ、足首は見た目だけは元通りになっていた。しかし、激しい痛みは消えなかったという。 エリアナとナタリアには怪我はなく、2人はナデジダの身を案じて急いで帰宅した。負傷したナデジダの様子を目の当たりにして、一刻も早く治療するために一家は神戸の病院まで向かうことになった。折よく横浜港に停泊していた商船に乗せてもらい、一家は神戸に向かった。横浜の市街は壊滅状態となり、姉妹がよく舞台に立っていたゲーテ座も瓦礫の山と化した。一連のできごとは、ナデジダにとって深い心の傷となった。 震災翌年の1923年3月、約半年をかけての足の治療は終了した。ナデジダの左足は変形したままで戻らず、ダンサーとして舞台に立つことは困難になった。横浜や浅草などは震災後の混乱が収まらず仕事にならなかったので、母娘は上海に引き揚げた。上海での3人の動静については詳細が知られていないものの、1924年9月29日と30日に同地のオリンピックシアターで公演したことが判明している。当時の新聞記事やポスターからわかるのは、エリアナとナデジダの他に河上鈴子を含む21人のダンサーが出演していたことである。 一家は頃合いを見て、アメリカへと渡航するつもりでいた。当時、アメリカには姉妹の従姉妹にあたる人物がいたという。しかし、1925年6月にまずエリアナが単身で日本に戻ってきた。ついでナデジダとナタリアもそれぞれ日本に入国した。日本に戻った理由は、沢靜子をはじめとする支援者たちから送られた日本への帰還を願う手紙が、彼女たちの心を動かしたからであった。このときは支援者のうち、沢、田中常彦、近藤一などが上海まで3人を迎えに行っている。
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