関東大震災前後とは? わかりやすく解説

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関東大震災前後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 01:52 UTC 版)

ナデジダ・パヴロワ (1905年生のバレエダンサー)」の記事における「関東大震災前後」の解説

日本バレエ注目される契機となったのは、1922年行われたアンナ・パヴロワ日本公演であったエリアナ教室でもバレエを習う人が増えナデジダエリアナ一緒に指導にあたっていた。 異郷日本での生活にもなじみ、一家充実した生活を送っていた。その平和な日々は、1923年突如として暗転することになった同年9月1日エリアナは母ナタリア連れ立って横浜正金銀行に出かけていた。ナデジダメイドとともに2人留守番務めていた。突如として「ドシーン」という激しい音と衝撃が彼女を襲い続いて激震木造の家は揺れ動き軋んで、やがて崩れ落ちた一瞬できごと逃げ出すこともかなわずナデジダは家の下敷きになってそのまま気を失った。 足の激し痛み意識取り戻したナデジダは、左の足首が「90度」右回りしていることに驚いた。どうにか瓦礫の中から足を力任せに引き抜いたところ、足首見た目だけは元通りになっていた。しかし、激し痛み消えなかったという。 エリアナナタリアには怪我はなく、2人ナデジダの身を案じて急いで帰宅した負傷したナデジダ様子目の当たりにして、一刻も早く治療するために一家神戸病院まで向かうことになった。折よく横浜港停泊していた商船乗せてもらい、一家神戸向かった横浜市街壊滅状態となり、姉妹がよく舞台立っていたゲーテ座も瓦礫の山化した一連のできごとは、ナデジダにとって深い心の傷となった震災翌年1923年3月、約半年をかけての足の治療終了したナデジダ左足変形したままで戻らずダンサーとして舞台に立つことは困難になった。横浜浅草などは震災後混乱が収まらず仕事にならなかったので、母娘上海引き揚げた。上海での3人の動静については詳細知られていないものの、1924年9月29日30日同地のオリンピックシアターで公演したことが判明している。当時新聞記事ポスターからわかるのは、エリアナナデジダの他に河上鈴子を含む21人のダンサー出演していたことである。 一家頃合い見てアメリカへと渡航するつもりでいた。当時アメリカには姉妹従姉妹にあたる人物がいたという。しかし、1925年6月にまずエリアナ単身日本戻ってきた。ついでナデジダナタリアそれぞれ日本入国した日本戻った理由は、沢靜子はじめとする支援者たちから送られ日本への帰還を願う手紙が、彼女たちの心を動かしたからであった。このときは支援者のうち、沢、田中常彦、近藤一などが上海まで3人を迎え行っている。

※この「関東大震災前後」の解説は、「ナデジダ・パヴロワ (1905年生のバレエダンサー)」の解説の一部です。
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