関東大震災後の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 01:00 UTC 版)
そして、その流れを決定的にしたのが、1923年に起きた関東大震災である。表層地盤の弱い都心部の銀座や浅草などの下町エリアは繁華街が全滅し人口が激減したのに対して、武蔵野台地(山の手台地)の東端に位置する新宿は地盤が強くほとんど被害を受けなかったために、渋谷、池袋といった他のターミナル駅とともに、郊外の人口の急増にともない駅周辺が新たな繁華街として発展することになったのである。 なかでも、当時の中央線は西郊から都心に乗換えなしに行ける唯一の鉄道であったことから、新宿に交通が集中するようになり、昭和の初めには小田急線、西武鉄道も乗り入れ、新宿は都内有数の繁華街となった。伊勢丹新宿本店や中村屋のカリー、高野商店の果物(フルーツパーラー)といった名物をはじめ、武蔵野館、新歌舞伎座、帝都座、ムーランルージュ新宿座などの映画館、劇場、カフェーなどが集中し人々で賑わうようになる。当時の賑わいは次のように描写されている。 新宿の雑踏を形作るものは何と伝つても新宿駅が吐き出す大衆が中心であつて、これ等の大衆がほてい屋へ行かうとするときには、あの目まぐるしい程往来頻繁な電車路をいやでも横切つて行かなくてはならない。新宿の街路は、電車や自動車やバスやトラックや自転車やが数珠つなぎになつて、朝早くから夜遅くまで分時の隙間もなく往来してゐて、自動車だけでも1分間に十九台平均に通るといふことである。
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