関東大震災以後の動向
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「東京都立図書館」の記事における「関東大震災以後の動向」の解説
1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災は死者・行方不明者10万人以上にも及び、東京府・神奈川県を中心に甚大な被害をもたらしたが、図書館もその例外でなく、深川・一橋・京橋の全焼をはじめ12館が焼失し罹災図書数は10万冊を超え、私立の大橋図書館や東京帝国大学附属図書館も全焼するに至った。焼失を免れた日比谷図書館も館内では書架が転倒するなど危険な状態であり、それ以前に日比谷公園が被災者救護の拠点であって館員も救護の任にあたり、また屋外新聞縦覧所を設けて正確な情報の提供に努めた。この被害に対して、日本図書館協会の呼びかけにより外地も含む全国から2万冊の図書が寄贈され、被災地の東京市、横浜市、大橋図書館で協議の上配分を行っている。震災後復旧に向けた取り組みは早く、バラックによる仮設ではあったが半年以内に19館の再開をみた。東京市の復興計画は予算の縮減による後退をみながらも図書館建設費には大きな予算が充てられ、その額は100万円、東京市継続震災復興事業費の4.32%を占めた。この継続震災復興事業費とは別に単年度の予算によって焼失した7つの自由図書館の復興も進められ、1926年(大正15年)の台南図書館を皮切りに1930年(昭和5年)の両国図書館完成まで建設が続いたが、独立した建物が用意された両国では新館完成を機に有料化している。以前より独立した建物を持つ深川・一橋・京橋の3館は上記継続震災復興事業費によって再建され、1927年(昭和2年)に深川が、1929年(昭和4年)に京橋区役所との合築で京橋が、1930年(昭和5年)には一橋が駿河台へと移転改称し、それぞれ震災前を上回る規模で再開し、またそれぞれの地域の特性に合わせた資料の充実と運営を目指した。一方、これら3館も日比谷図書館と同様の有料制となり、サービスとして後退した面も見られた。また、新たな中央図書館構想が挫折し日比谷図書館館頭の立場も教育局長の下に置かれ発言力が弱まる中で、1931年(昭和6年)には今沢も辞表を提出するに至った。 1932年(昭和7年)10月1日、東京市では5郡82町村を編入して20区に編成し直し、既存の15区と加えて35区のいわゆる「大東京市」となった。このとき渋谷、中野、寺島、西巣鴨の4町立図書館を市立図書館に組み入れ、同年には旧品川町で市立品川図書館を開館させている。しかし、旧市域の20館に対して新市域ではわずか5館とその格差は顕著であり、編入合併により人口が膨れ上がったことで人口あたりの蔵書数も急激に低下した。この問題に対処するため市では淀橋区、王子区、荒川区にそれぞれ図書館を設置しているがいずれも有料制であり、また荒川図書館が戦前で最後の新設となった。また、本所・浅草の2館も改築に伴い独立した建物が用意されたがやはり有料制となった。 日比谷図書館はかねてより施設が手狭で、関東大震災での損傷もあって建て替えの必要が指摘されてきたが、計画は遅々として進展しなかった。1934年(昭和9年)全面改築の方針が決まったものの、事業にともなう起債の認可が得られず、日中戦争へと進展していく中国での軍事衝突の影響で50t以上の鋼材の使用も禁止され、改築計画は中止に至った。1938年(昭和13年)には危険施設との指摘を受け、閉館決定の報道までがなされるが、これは市民の猛反発もあり急遽予算が組まれ、応急補強がなされて閉館だけは免れた。
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