安宅関とは? わかりやすく解説

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あたか‐の‐せき【安宅の関】

読み方:あたかのせき

石川県小松市鎌倉初期にあった関所謡曲安宅」、歌舞伎勧進帳」の舞台

安宅の関の画像
安宅の関跡

安宅関

読み方:アタカノセキ(atakanoseki)

初演 明治27.3(京都常磐座)


安宅関

読み方:アタカノセキ(atakanoseki)

初演 明治40.4(東京宮戸座)

音曲


安宅関

読み方:アタカノセキ(atakanoseki)

作者 榎本虎彦

ジャンル 歌舞伎


安宅の関

(安宅関 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/28 01:09 UTC 版)

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座標: 北緯36度25分10.0秒 東経136度25分5.4秒 / 北緯36.419444度 東経136.418167度 / 36.419444; 136.418167

安宅関址碑
安宅関跡にある銅像。左から源義経、武蔵坊弁慶、富樫泰家

安宅の関(あたかのせき)は、石川県小松市日本海側にある安宅に守護富樫氏が設けたと言われる関所

解説

如意の渡しでのエピソードを元にした、源義経武蔵坊弁慶らとともに奥州藤原氏の本拠地平泉を目指して通りかかり弁慶が偽りの勧進帳を読み義経だと見破りはしたものの関守・富樫泰家の同情で通過出来たという、歌舞伎の「勧進帳」でも有名。

『兵部式』では安宅駅、『義経記』では安宅の渡、『八雲御抄』では安宅橋と記述があるのみで、安宅関と記載のあるものは謡曲安宅』のみで、ここに関所があったかどうかの歴史的な実在性は疑問視されている。

現在は安宅住吉神社境内に位置する[1]1939年3月18日に「安宅の関跡」として石川県史跡に指定されている[2]銅像の武蔵坊弁慶は七代目松本幸四郎が、富樫泰家は二代目市川左團次がモデルとなっている[3]

脚注

  1. ^ 正保4年(1647年)に、他所に鎮座していた同社が遷座してきたため。
  2. ^ 安宅の関跡・吉光の一里塚”. 石川県 (2010年9月21日). 2013年4月1日閲覧。
  3. ^ 2009年6月24日読売新聞12版33面「勧進帳」安宅の関

関連項目

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