重源とは?

ちょうげん 【重源】 ○

1121~1206鎌倉初期浄土宗の僧。俊乗房しゆんじようぼう)・南無阿弥陀仏号す密教を学んだのち、法然から浄土教学び諸国遊行三度入宋したといわれる東大寺再建のための大勧進職に任じられ、天竺様式をとり入れた大仏殿完成民衆教化救済、また架橋・築池などの土木事業にも尽くした。

重源

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/13 13:43 UTC 版)

重源(ちょうげん、保安2年(1121年) - 建永元年6月5日1206年7月12日))は、中世初期(平安時代末期から鎌倉時代)の日本房号[注 1]俊乗房(しゅんじょうぼう、俊乗坊とも記す)。


注釈

  1. ^ [ぼう-ごう] 得度名。(本名)とは別に付けた仮名(けみょう)であり、通名として用いる。
  2. ^ 異論もある。
  3. ^ 兼実の日記『玉葉』によれば寿永2年(1183年)に重源と会った際に中国がに分断されている事実を初めて知り、「希異」の感を抱いたという。兼実は当時屈指の知識人の一人であり、当時の日本人の対外認識の低さを伝える故事として知られている。[3]
  4. ^ 重源は材木を探して伊賀吉野伊勢などに赴いたが良材を見つけることができず、まだ森林資源が豊富な周防国が朝廷から充てられた。また、当時の周防国が後白河法皇の院分国だったことも当地が選ばれた理由としてあげられる[2]
  5. ^ 当時は、佐波川には118ヶ所の堰(関水)を設けたと言われる(山口市徳地の佐波川関水跡の説明板より)。
  6. ^ 山口市徳地の重源上人像説明板より
  7. ^ 前者は「僧重源下文」(『浄土寺文書』、『鎌倉遺文』2-621)、後者は「周防国司庁宣案」(『浄土寺文書』、『鎌倉遺文』2-1161)
  8. ^ ただし、再建事業の全作業が完成したことの宣言は焼失から100年以上経た正応2年1月18日1289年2月9日)のことであった。

出典

  1. ^ a b c d 納冨常天 「重源」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館
  2. ^ a b c d e 伊藤幸司、山口県立大学国際文化学部(編)「徳地からひろがる「材木の道」」『大学的 やまぐちガイド:「歴史と文化」の新視点』 昭和堂 2011 ISBN 9784812210697 pp.19-25.
  3. ^ 北爪真佐夫『中世初期政治史研究』(吉川弘文館、1998年、ISBN 978-4-642-02764-9)34頁。
  4. ^ 滑山風景林(山口市徳地) - 近畿中国森林管理局
  5. ^ 岡元司「周防から明州へ」『宋代沿海地域社会史研究』汲古書院、2012年(原論文:2006年)
  6. ^ 小原仁「重源の勧進活動とその論理」(『中世貴族社会と仏教』(吉川弘文館、2007年) ISBN 978-4-642-02460-0 (原論文発表は1995年)


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