院宮分国制とは? わかりやすく解説

院宮分国制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/18 08:22 UTC 版)

院宮分国制(いんぐうぶんこくせい)とは、女院中宮斎宮などに除目の際に特定の令制国受領を推挙する権利を与え、そこから経済的利益の配分を受けることで俸禄の代わりとする制度。主に院司が受領に任じられて任国に下って知行国院分国)を支配した。平安時代から南北朝時代にかけて置かれていた。

その由来については淡路国に流された淡路廃帝大炊親王(淳仁天皇)のために同国の官物・庸調が廃帝の生活に充てられ、平城京に籠った平城上皇のために大和国田租地子が生活に充てられたもの、更にその後導入された親王任国を制度の嚆矢とする説もあるが、延喜8年(908年)に宇多上皇のために信濃国が与えられ、10年後に更に武蔵国が与えられたのが最古の例と考えるのが妥当とされている。その後、初めて女院となった東三条院藤原詮子に対しても上皇と同じような待遇が許され、更に久安2年(1146年鳥羽上皇皇后藤原得子近衛天皇生母・後の美福門院)に越前国が与えられたのを機に后妃や斎宮にも同様に認められるようになった。

ただし、令制国から何を得たのかについては2つに分かれており、任命された受領の俸禄の一部とする説と受領が徴収した租税などの収入の一部とする説が存在する。前者とすると院らの収入が少なすぎる上に任命された受領にとってのメリットも無くなるために後者であろうと考える説が有力であるが、詳細は不明である。

いずれにしても平安時代後期には令制国における収入が滞り、複数国の知行を受ける例が増加する。受領の任期は通常4年であったが、院らは持ち回りによって毎年のように別個の令制国の受領を任じた(4ヶ国の知行国があれば、毎年別の国の受領を推挙・任命することになる)ために「年分受領」とも呼ばれるようになった。

関連項目


院宮分国制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 07:00 UTC 版)

知行国」の記事における「院宮分国制」の解説

詳細は「院宮分国制」を参照 知行国は、平安時代中期の院宮分国制に発端する。院宮分国制とは、年限限って院宮家上皇女院皇后中宮東宮など)に特定国の国守(または受領)を推薦する権利与えとともに当該国から上進される官物院宮家収納するという制度である。院宮分国制は10世紀初頭ら行われていた。院宮家は、自らの側近血縁者国守受領任命することが通例であった11世紀から12世紀にかけて、院宮分国制が有力貴族の間にも拡がった。

※この「院宮分国制」の解説は、「知行国」の解説の一部です。
「院宮分国制」を含む「知行国」の記事については、「知行国」の概要を参照ください。

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