院展同人へ
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1927年(昭和2年)三季の紹介で前田青邨に入門して再出発する。既に31歳になっていた聴雨の心を支えたのは聖書であった。院展に二年続けて、キリストを主題とした作品を出品するも落選。1930年(昭和5年)今度は一変して、當麻寺の中将姫伝説に取材した《浄土変》(現在所在不明)で、第1回日本美術院賞を受け一躍脚光を浴びた。その後も、《お産》《種痘》《星をみる女性》などの名作を送り出していった。 1944年(昭和19年)家族とともに伊豆・下田に疎開、同26年に東京芸術大学助教授になるまでの7年間を過ごす。戦後、岩絵具を厚く塗り込める日本画が流行しても、当初聴雨は伝統的な日本画を守ろうとした。1948年(昭和23年)の《二河白道を描く》は、正にそうした画家の自画像と言える。しかし、1950年(昭和25年)ごろから方向転換を図り、岩絵具本来の色を活かしながら色面を構成することで、物の形を表す画風へ進む。1958年(昭和33年)東京芸術大学美術学部日本画科教授に昇任したばかりの3月、脳出血のため死去。享年62。同年11月~翌年1959年(昭和34年)1月まで、神奈川県立近代美術館にて、太田聴雨回顧展が開催される。
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