院御所議定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 03:38 UTC 版)
27日、院御所議定が開かれ、謀反を起こした園城寺・興福寺に対する措置が議論された(『玉葉』『山槐記』同日条)。議定の始まる前に宗盛・時忠・藤原隆季・藤原邦綱が集まり、高倉上皇の御前で「内議」を行っている。 議定において源通親・隆季は「園城寺は衆徒が退散したので張本人を捕らえるだけで良い。しかし、興福寺は謀反に同意した罪は軽くない。すみやかに官軍を派遣して攻撃し、末寺・荘園を没収するべきである」と主張した。その他の公卿は「張本人を差し出すように要求して、拒否されてから官軍を派遣するべきだ」と慎重論を唱え、右大臣・兼実、左大臣・経宗もこれに同意した。 経宗が左少弁・藤原行隆を呼んで、高倉上皇に議定の意見を奏聞しようとしたところ、隆季は「興福寺別当・権別当が衆徒を制止できないと言い切っているのに、どうして使者を派遣する必要があるのか。どの道を通って誰に下達するつもりなのか」と抗弁した。兼実が「一宗を磨滅して何の益があるのか」と反論したため、隆季は不快の色を見せた。その後、奏聞から戻ってきた行隆が以仁王誅伐の情報を伝えたため、興福寺即時追討論は退けられた。 兼実は、隆季・通親の申状を「権門(清盛)の素意を察し、朝家の巨害を知らず」と激しく非難している。 なお、28日に高倉上皇が秘かに清盛邸に梟首されていた以仁王と源頼政の首級を見に行き(『百錬抄』)、皇位を退いたとは言え太上天皇が死穢である首級を見に行く行為は当時の貴族の間で批判の対象となっていたことを後日になって隆季と藤原経房が語っている(『吉記』養和元年8月20日条)。
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