院宮王臣家との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 03:17 UTC 版)
軍事貴族は他の技能官人層の中下級公家と同様、摂関家など有力公家の家司や治天の君の院司として、私的に奉仕するという側面も持っていた。清和源氏は源満仲以来、藤原北家(摂関家)の家司として代々仕え、同家による他氏排斥の際には藤原北家の家司として積極的に関与した。また清和源氏は摂関家の私兵として仕伺したり摂関家へ多大な成功(じょうごう)を行うなど、摂関家の権勢維持に大きな役割を果たした。 一方、国香・貞盛流桓武平氏は藤原北家の九条流(貞盛の弟繁盛が藤原師輔、貞盛の子維衡が藤原道長など)以外にも藤原顕光や藤原実資の家司として仕えたが、清和源氏に比べると遅れをとっていた。 摂関家への貢献によって清和源氏は優遇されるようになり、源頼光・源頼親兄弟、源頼義・源義家父子が正四位という軍事貴族最高位に相次いで叙せられ、武家の棟梁というべき立場を得るに至った。ここで注意しなくてはならないことは、清和源氏が武家の棟梁という地位を得たのは、その武勇によってというよりも、摂関家への奉仕という中央公家の内部事情に起因するという点である。軍事貴族は確かに在地有力者との主従関係の構築を進めてきてはいたが、その存立基盤はやはり中央政界にあったのである。 白河院による院政が始まると、平忠盛は院近臣の郎党となって白河院に接近してゆく。院司となり、正四位に叙せられて軍事貴族の最高位者、すなわち武家の棟梁として台頭していった。武家の棟梁の地位が源氏から平氏へ移動した背景には、中央政界の中心が摂関家から院政を布く治天の君へシフトしたという事情がある(源氏は摂関家の権威を背景に、平家は院の権威を背景に台頭したことによる)。これは、武家の棟梁の地位、ひいては軍事貴族の地位が中央政界の動向に制約されていたことの証左とされている。
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