武家火消による出初
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江戸時代の江戸では火事が頻発したため(江戸の火事)、江戸幕府によって消防組織である火消が制度化されていった。まず制度化されたのは武士による火消(武家火消)であり寛永20年(1643年)、大名に課役として消防を命じた大名火消が制度化された。しかし明暦3年(1657年)に発生した明暦の大火では火勢を食い止めることが出来ず江戸城天守閣を含む江戸の大半が焼失、3万人から10万人と推計される犠牲者を出し江戸の歴史上最大の被害となった。 そのため明暦の大火翌年の万治元年(1658年)、幕府直轄の新たな消防組織として定火消が制度化された。4000石以上の旗本から4名(秋山正房・近藤用将・内藤政吉・町野幸宣)が選ばれ、臥煙(がえん)と呼ばれる火消人足とともに火消屋敷(消防署の原型)に居住し消防活動を担当することとなった。翌万治2年1月4日(1659年2月25日)、老中・稲葉正則に率いられた定火消4組が上野東照宮に集結し気勢をあげた。この行動は出初と呼ばれ、明暦の大火後の復興作業に苦しんでいた江戸の住人に対し大きな希望と信頼を与えた。 以降、毎年1月4日に上野東照宮で定火消による出初が行われるようになり次第に儀式化していった。出初は大名火消によっても行われ、派手な装束と勇壮な活躍で知られた加賀鳶の出初では梯子の曲乗りが衆目を集めた。
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