武家社会の台頭と官人陰陽師の凋落とは? わかりやすく解説

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武家社会の台頭と官人陰陽師の凋落

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 00:36 UTC 版)

陰陽師」の記事における「武家社会の台頭と官人陰陽師の凋落」の解説

平安時代末期12世紀後半)には、院政に際して重用され北面武士由来する平家興隆や、それを倒した源氏などによる武家社会台頭し建久3年1192年)には武家政権である鎌倉幕府正式に成立した源平の戦いの頃から、源平両氏とも行動規範定めるにおいて陰陽師存在欠かせないものであったことから、新幕府においても陰陽道重用され傾向にあった幕府開祖である源頼朝が、政権奪取への転戦過程から幕府開設初期の諸施策における行動にあたって陰陽師の占じた吉日用い2代将軍源頼家もこの例にならい京から陰陽師を招くなどしたが私生活まで影響されるようなことはなく、公的行事形式補完的な目的限って陰陽師活用した建保7年1219年)に3代将軍源実朝暗殺されると、北条氏による執権政治展開されるようになり、鎌倉将軍執権北条氏傀儡将軍として代々摂関家皇族から招かれるようになり、招かれ将軍たちは出自当然ながら陰陽師重用した4代将軍藤原頼経は、武蔵国現在の東京都および埼玉県)の湿地開発一段落したのを受けて公共事業として多摩川水系から灌漑用水を引き飲料水確保水田開発利用しようとする政所方針上申された際、その開発対象地域が府都鎌倉真北位置するために、陰陽師によって大犯土だいぼんど、おおつち)(大凶方位)であると判じられたため、将軍居宅をわざわざ鎌倉から吉方であるとされた秋田城介義景の別屋敷現在の神奈川県横浜市鶴見区)にまで移転陰陽道で言う「方違え」)してから工事開始命じたほか、その後代々、いちいち京から陰陽師招聘することなく身辺に「権門陰陽道」と称されるようになった陰陽師集団確保するようになり、後の承久の乱の際には朝廷陰陽寮陰陽師たちに、将軍権門陰陽師たちにそれぞれ祈祷行わせるなど、特に中後期鎌倉将軍にとって陰陽師欠かせない存在であった。 ただ、皇族・公家出身将軍近辺のみ陰陽道に熱心なのであって実権持っていた執権北条一族は必ずしも陰陽道こだわり持っておらず、配下東国武士から全国地域地盤由来する後に国人呼ばれるようになった武士層に至るまで、朝廷代々格式意識した陰陽師行動規範諮る習慣はなかったため、総じて陰陽師武家社会全般蹂躙するような精神的影響力を持つことはなく、もっぱら傀儡である皇族・公家出身将軍と、実権失った朝廷公卿公家世界においてのみ、その存在感を示すにとどまった鎌倉時代初期においては国衙領荘園守護人奉行(のちの守護)や地頭影響力それほど及んでいなかったが、鎌倉中期以降国衙領荘園税収効率または領地そのものがこれらに急激に侵食されはじめると、陰陽師保護基盤である朝廷・公家勢力経済的に苦境迎えるようになっていった。 後醍醐天皇勅令によって鎌倉幕府倒され足利尊氏後醍醐天皇から離反して室町幕府開いて南北朝時代到来すると、京に幕府開いて北朝支持する足利将軍家次第公家風の志向をもつようになり、3代将軍足利義満ころから陰陽師が再び重用されようになった義満は、天皇家権威を私せんと画策しており、彼の陰陽師重用宮廷における祭祀奪取するためのものでもあったとする説もある)。 陰陽道世襲2家のうち、南北朝期賀茂家は居宅のあった勘解由小路(かでのこうじ)に因んで勘解由小路家名乗り賀茂勘解由小路在方が『暦問答集』を著すなど活躍したものの、室町時代中期得宗家の後継者が殺害され家系断絶に至る等し勢力徐々に凋落した。一方安倍家上手く立ち回り安倍有世晴明から14の子孫)は、将軍義満庇護足がかりに、ついに公卿である従二位にまで達し当時宮中では職掌柄恐れ忌み嫌われる立場にあった陰陽師公卿になったことが画期的な事件として話題呼んだその後も、安倍有世の子有盛から有季・有宣と代々公卿昇進し、本来は中級貴族であった安倍家堂上家半家)の家格にまで躍進させ、有宣の代(16世紀)には勘解由小路家断絶機会捉えてその後5代わたって天文・暦両道にかかわる職掌独占し、有世以来代々当主屋敷土御門にあったことから土御門氏名(うじな。家名)とするようになり、朝廷将軍からの支持一手集めここまではその陰陽諸道上の勢力万全なものとしたかのように見えた。 しかし、足利将軍職の政治的実権長く続かず室町時代中盤以降となると三管四職細川家除いておしなべて衰退して幕府統制と言うよりも有力守護らによる連合政権的な色彩強めて派閥闘争を生み、応仁の乱などの戦乱頻発するようになった。更に守護大名戦国大名へ移行守護代国人などによる下克上風潮が広まると、武家たちは生き残り必死で、形式補完的用いていた陰陽道などはことさら重視せず、相次ぐ戦乱戦国大名らの専横によって陰陽師庇護者ある朝廷のある京も荒れ果て将軍逃避することがしばしば見られるようになった天文年間16世紀前半)には、土御門阿倍)有宣は平時には決し訪れることのなかった所領若狭国名田庄(なたのしょう)納田終(のたおい)に疎開して、その子有春・孫土御門有脩3代にわたり陰陽頭任命されながらも京にほとんど出仕するともなく若狭とどまって泰山府君祭などの諸祭祀行ったため、困惑した朝廷やむなく賀茂勘解由小路)氏傍流勘解由小路在富召し出して諸々勘申勘文奏上する事)を行わせるなど、陰陽寮運用極めて不自然なものとなっていった。その後織田氏経て豊臣家勢力確立するなか、太閤豊臣秀吉養子関白秀次を排斥切腹させた際、土御門久脩上記有脩の息)が秀次の祈祷請け負ったかどで連座させられ尾張国流されることとなり、更に秀吉陰陽師大量弾圧を見るに至って陰陽寮陰陽頭以下が実質的に欠職となり陰陽師政権中央において不稼動態となると、平安朝以来宮廷陰陽道は完全にその実態を失うこととなった律令制の完全崩壊秀吉弾圧にともない陰陽寮または官人としての陰陽師はその存在感喪失したものの、逆にそれまで建前上国機密とされていた陰陽道一気広く民間流出し全国数多く民間陰陽師活躍したこのため、中近世においては陰陽師という呼称は、もはや陰陽寮官僚ではなくもっぱら民間私的依頼受けて加持祈祷占断などを行う非官人民間陰陽師を指すようになり、各地民衆信仰民俗儀礼融合してそれぞれ独自の変遷遂げたまた、この頃にかけて、鎌倉時代末期から南北朝時代初期14世紀初頭から15世紀初頭)のおよそ100年間に安倍晴明仮託して著されたと考えられる簠簋内伝』が、牛頭天王信仰と結びついた民間陰陽書として広く知られるようになったまた、このころ以降一部定まった住居持たず漂泊する民間陰陽師は他の漂泊民と同じく賤視の対象とされ、彼らは時にハカセ」と呼ばれたが、陰陽師自称して霊媒口寄せ施術口実各地行脚し高額な祈祷料占断料を請求する者も見られるようになって、「陰陽師」という言葉に対して極めてオカルティック胡散臭いイメージ広く定着することにもなった。

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