武家社会の台頭と官人陰陽師の凋落
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「陰陽師」の記事における「武家社会の台頭と官人陰陽師の凋落」の解説
平安時代末期(12世紀後半)には、院政に際して重用された北面武士に由来する平家の興隆や、それを倒した源氏などによる武家社会が台頭し、建久3年(1192年)には武家政権である鎌倉幕府が正式に成立した。源平の戦いの頃から、源平両氏とも行動規範を定めるにおいて陰陽師の存在は欠かせないものであったことから、新幕府においても陰陽道は重用される傾向にあった。幕府開祖である源頼朝が、政権奪取への転戦の過程から幕府開設初期の諸施策における行動にあたって陰陽師の占じた吉日を用い、2代将軍源頼家もこの例にならい京から陰陽師を招くなどしたが、私生活まで影響されるようなことはなく、公的行事の形式補完的な目的に限って陰陽師を活用した。 建保7年(1219年)に3代将軍源実朝が暗殺されると、北条氏による執権政治が展開されるようになり、鎌倉将軍は執権北条氏の傀儡将軍として代々摂関家や皇族から招かれるようになり、招かれた将軍たちは出自柄当然ながら陰陽師を重用した。4代将軍藤原頼経は、武蔵国(現在の東京都および埼玉県)の湿地開発が一段落したのを受けて、公共事業として多摩川水系から灌漑用水を引き飲料水確保や水田開発に利用しようとする政所の方針を上申された際、その開発対象地域が府都鎌倉の真北に位置するために、陰陽師によって大犯土(だいぼんど、おおつち)(大凶の方位)であると判じられたため、将軍の居宅をわざわざ鎌倉から吉方であるとされた秋田城介義景の別屋敷(現在の神奈川県横浜市鶴見区)にまで移転(陰陽道で言う「方違え」)してから工事の開始を命じたほか、その後代々、いちいち京から陰陽師を招聘することなく、身辺に「権門陰陽道」と称されるようになった陰陽師集団を確保するようになり、後の承久の乱の際には朝廷は陰陽寮の陰陽師たちに、将軍は権門陰陽師たちにそれぞれ祈祷を行わせるなど、特に中後期鎌倉将軍にとって陰陽師は欠かせない存在であった。 ただ、皇族・公家出身の将軍近辺のみ陰陽道に熱心なのであって、実権を持っていた執権の北条一族は必ずしも陰陽道にこだわりを持っておらず、配下の東国武士から全国の地域地盤に由来する後に国人と呼ばれるようになった武士層に至るまで、朝廷代々の格式を意識したり陰陽師に行動規範を諮る習慣はなかったため、総じて陰陽師は武家社会全般を蹂躙するような精神的影響力を持つことはなく、もっぱら傀儡である皇族・公家出身将軍と、実権を失った朝廷や公卿・公家世界においてのみ、その存在感を示すにとどまった。鎌倉時代初期においては、国衙領や荘園に守護人奉行(のちの守護)や地頭の影響力はそれほど及んでいなかったが、鎌倉中期以降、国衙領・荘園の税収入効率または領地そのものがこれらに急激に侵食されはじめると、陰陽師の保護基盤である朝廷・公家勢力は経済的にも苦境を迎えるようになっていった。 後醍醐天皇の勅令によって鎌倉幕府が倒され、足利尊氏が後醍醐天皇から離反して室町幕府を開いて南北朝時代が到来すると、京に幕府を開いて北朝を支持する足利将軍家は次第に公家風の志向をもつようになり、3代将軍足利義満のころからは陰陽師が再び重用されるようになった(義満は、天皇家の権威を私せんと画策しており、彼の陰陽師重用は宮廷における祭祀権を奪取するためのものでもあったとする説もある)。 陰陽道世襲2家のうち、南北朝期に賀茂家は居宅のあった勘解由小路(かでのこうじ)に因んで勘解由小路家を名乗り、賀茂(勘解由小路)在方が『暦林問答集』を著すなど活躍したものの、室町時代中期に得宗家の後継者が殺害されて家系断絶に至る等して勢力は徐々に凋落した。一方、安倍家は上手く立ち回り、安倍有世(晴明から14代の子孫)は、将軍義満の庇護を足がかりに、ついに公卿である従二位にまで達し、当時の宮中では職掌柄恐れ忌み嫌われる立場にあった陰陽師が公卿になったことが画期的な事件として話題を呼んだ。その後も、安倍有世の子有盛から有季・有宣と代々公卿に昇進し、本来は中級貴族であった安倍家を堂上家(半家)の家格にまで躍進させ、有宣の代(16世紀)には勘解由小路家の断絶の機会を捉えてその後5代にわたって天文・暦の両道にかかわる職掌を独占し、有世以来代々の当主の屋敷が土御門にあったことから土御門を氏名(うじな。家名)とするようになり、朝廷・将軍からの支持を一手に集め、ここまではその陰陽諸道上の勢力を万全なものとしたかのように見えた。 しかし、足利将軍職の政治的実権は長くは続かず、室町時代中盤以降となると、三管四職も細川家を除いてはおしなべて衰退して、幕府統制と言うよりも有力守護らによる連合政権的な色彩を強めて派閥闘争を生み、応仁の乱などの戦乱が頻発するようになった。更に守護大名の戦国大名への移行や守護代・国人などによる下克上の風潮が広まると、武家たちは生き残りに必死で、形式補完的に用いていた陰陽道などはことさら重視せず、相次ぐ戦乱や戦国大名らの専横によって陰陽師の庇護者である朝廷のある京も荒れ果て、将軍も逃避することがしばしば見られるようになった。天文年間(16世紀前半)には、土御門(阿倍)有宣は平時には決して訪れることのなかった所領の若狭国名田庄(なたのしょう)納田終(のたおい)に疎開して、その子有春・孫土御門有脩の3代にわたり陰陽頭に任命されながらも京にほとんど出仕することもなく若狭にとどまって泰山府君祭などの諸祭祀を行ったため、困惑した朝廷はやむなく賀茂(勘解由小路)氏傍流の勘解由小路在富を召し出して諸々の勘申(勘文を奏上する事)を行わせるなど、陰陽寮の運用は極めて不自然なものとなっていった。その後、織田氏を経て豊臣家が勢力を確立するなか、太閤豊臣秀吉が養子の関白秀次を排斥・切腹させた際、土御門久脩(上記有脩の息)が秀次の祈祷を請け負ったかどで連座させられて尾張国に流されることとなり、更に秀吉の陰陽師大量弾圧を見るに至って陰陽寮は陰陽頭以下が実質的に欠職となり陰陽師も政権中央において不稼動状態となると、平安朝以来の宮廷陰陽道は完全にその実態を失うこととなった。 律令制の完全崩壊と秀吉の弾圧にともない、陰陽寮または官人としての陰陽師はその存在感を喪失したものの、逆にそれまで建前上国家機密とされていた陰陽道は一気に広く民間に流出し、全国で数多くの民間陰陽師が活躍した。このため、中近世においては陰陽師という呼称は、もはや陰陽寮の官僚ではなく、もっぱら民間で私的依頼を受けて加持祈祷や占断などを行う非官人の民間陰陽師を指すようになり、各地の民衆信仰や民俗儀礼と融合してそれぞれ独自の変遷を遂げた。また、この頃にかけて、鎌倉時代末期から南北朝時代初期(14世紀初頭から15世紀初頭)のおよそ100年間に安倍晴明に仮託して著されたと考えられる『簠簋内伝』が、牛頭天王信仰と結びついた民間陰陽書として広く知られるようになった。また、このころ以降、一部の定まった住居を持たず漂泊する民間陰陽師は他の漂泊民と同じく賤視の対象とされ、彼らは時に「ハカセ」と呼ばれたが、陰陽師を自称して霊媒や口寄せの施術を口実に各地を行脚し高額な祈祷料や占断料を請求する者も見られるようになって、「陰陽師」という言葉に対して極めてオカルティックで胡散臭いイメージが広く定着することにもなった。
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