初期の城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/05 07:59 UTC 版)
12世紀、ウィリアム獅子王はアーカートに王城を持っていたという識者もあるが、アルコック教授はその論証を発見することはできなかった。12世紀と13世紀に、マルカム3世の孫マクウィリアムス(Meic Uilleim)は、デイヴィッド1世とその後継者に何度も襲撃をしかけた。最後の襲撃の記録は1229年である。秩序維持のため、アレグザンダー2世は自分のHostarius(守衛もしくは門衛)のトーマス・デ・ランディン(Thomas de Lundin)にアーカートを下賜した。 数年にランディンが死ぬと、アーカートは息子のアラン・デューワード(Alan Durward)に引き継がれた。城の原型はこの後まもなくに、敷地の南西のモットの上に建てられたと考えられている。1275年、アランの死後、王はアーカートを、バデノッホの領主ジョン・カミン2世(John II Comyn)に授けた。 アーカート城の存在が最初に記録されているのは1296年、エドワード1世に占拠されたときである。エドワードの侵略をきっかけに起こったスコットランド独立戦争は、1357年まで断続的に続いた。エドワードはウィリアム・フィッツワリン卿を城守に任じて、城をイングランドの制圧下に置いた。1297年、ウィリアムはインヴァネスからの帰途、アンドリュー・マレー卿の待ち伏せを受けた。その後モーレイは城を包囲して夜襲をかけたが、不首尾に終わった。1298年、アーカートは再びスコットランドに制圧され、イングランドは駆逐された。1303年には再びイングランドの襲撃を受けたが、アレクサンダー・デ・フォーブ卿は防御に失敗した。このときエドワードは、ジョン・カミンの兄弟アレクサンダー・カミンを総督として置いたため、一族はイングランドの側についてロバート1世に敵対した。1306年にジョン・カミン3世が殺害されると、ロバート1世はカミン一族を破り、1307年にグレート・グレン峡谷を進軍、インバーロッキー、アーカート、インヴァネスを落城させた。これ以降、アーカートは王城となり、城守がおかれるようになった。 1329年のアーカートの城守は、クアレルウッドのロバート・ローダー卿だった。1333年のハリドン・ヒルの戦いでスコットランドが敗北した後、ローダー卿は他のイングランド勢の侵略からアーカート城を守るために戻った。この時期、スコットランドが持ちこたえていた城はたった5つだったが、アーカート城はそのうちの1つだった。1342年、デイヴィッド2世はアーカートで夏の狩猟時期を過ごしたが、彼はアーカートで過ごした唯一の王である。 それ以降の200年間、グレート・グレン峡谷は、アイル領主マクドナルド氏族の急襲をしばしば受けた。彼らは西スコットランドを強力に統治して半独立王国とし、ロス伯爵位を要求していた。1395年、アイル領主ドーナルはアーカート城を王から奪い、15年以上守り抜いた。1411年、ハーラウでイングランド王の派との戦いに臨むため、ドーナルは谷を進軍した。はっきりとした決着はつかなかったが、ドーナルはその後主導権を失い、王はすぐにアーカートを指揮下に置いた。1437年、ドーナルの息子のロス伯爵アレクサンダーは、アーカートの峡谷を襲撃したが、城を制圧することはできなかった。城の防御力を高めるために、王の資金が購われた。アレクサンダーの息子のロス伯爵ジョンは、16歳で父の後を継いだ。1452年、彼もまたグレート・グレンを急襲し、アーカートの地と城とを手に入れた。しかし1462年、ジョンは、スコットランド王ジェームズ3世に敵対する、イングランド王エドワード4世とウェストミンスター条約を結んだ。1476年、これをジェームズ3世が知るところになると、ジョンは称号を剥奪され、アーカート城は、同盟国のハントリー伯爵ジョージ・ゴードンに引き渡された。
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