初期の城柵
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城柵は、大化3年(647年)の渟足柵(現在の新潟県新潟市沼垂付近と比定される)設置が記録上の初出である。翌大化4年(648年)には同じく越後国に磐舟柵(現在の新潟県村上市岩船付近と比定される)が設置された。これに先立つ斉明天皇元年(642年)に当地の蝦夷数千人が服属を申し出ており、この2つの柵は政治的・軍事的な役割のほかに蝦夷との交易・交流の拠点という役割も担ったものと考えられる。また、『日本書紀』の記述からは渟足柵・磐舟柵の設置にあたって柵戸が置かれたことが記されており、城柵の設置と移民の扶植は、当初からの一体的な政策であったことがわかる。この2つの城柵はともに海岸沿いの砂丘と河川の交点付近に築かれたと推測され、海上交通の便益が図られたとみられることも共通する。しかしながら両柵とも正確な場所が不明で、文献上の存在となっている。皇極天皇4年(658年)には都岐沙羅柵という名も『日本書紀』に見えるが、これもいつどこに設置されたのか不明である。 考古学的な調査から様相が明らかとなっている初期の城柵としては、宮城県仙台市太白区で発見された郡山遺跡が挙げられる。現在の長町駅(JR東北本線・仙台市地下鉄南北線)東方にあり、広瀬川と名取川に挟まれた自然堤防と後背湿地上に位置する。この城柵は日本海側の渟足柵、磐舟柵に対応する、太平洋側の拠点であった。郡山遺跡ではI期・II期の二つの時期にわたる官衙の遺構が発見され、I期の遺構は東西約300m、南北約600mの広がりを持つ。建築方向は真北から西に約60度傾いており、材木塀や板塀で囲まれた政庁・工房・倉庫などの区画が連なっていた(ブロック連結構造城柵)。この施設構成は同時期の評家(郡家)遺跡と共通するものであるが、一方で武器工房を有し、櫓を設けるなど、一定の軍事的緊張を窺わせるものでもあった。 7世紀末頃、郡山遺跡はI期の官衙を廃棄し、その跡地に第II期の官衙が造営された。II期の遺構は東西約428m、南北約423mのほぼ正方形(一辺が約4町にあたることから、方四町官衙と呼ばれる)で、建築方位はほぼ真北を向く。敷地のほぼ中央に政庁たる正殿を置き、左右対照に脇殿や楼が配された。また、外周の塀から約9m離れて大溝が、さらに48mほど離れて外溝が開削されており、大溝と外溝の間は空き地である。外溝を含めた全体の規模は一辺約535mの方形となり、これは初めて条坊制を採用した藤原京の一坊の長さに相当した。政庁の施設配置及び正殿が南面する様式や、正殿北側に石敷きの広場が設けられたこと、大溝と外溝の間を空閑地とするなどの構成は、飛鳥宮や藤原京の強い影響を受けたものと考えられている。一方で、敷地の広大さに比して施設は全体的に希薄で、倉庫や官人の邸宅などの実務的な施設は郭外に置かれた。官衙内に倉庫を置かない構成は、秋田城を除いて後の城柵でも通例となっている。その他特筆すべき事項として、南西側に寺院が創建(郡山廃寺)されたことが挙げられ、城柵の周囲に寺院を置く構成は後代の多賀城や秋田城でも引き継がれた。 郡山遺跡II期官衙ではI期のブロック連結構造城柵を脱却し、都の朝堂を直接的に模倣した儀礼的な空間が志向され、後の城柵もこれに倣うこととなった。その一方郡山遺跡では外周の材木塀は一重(単郭式)で、主な実務施設を郭外に置くことになるなど、防御性に乏しい。郡山遺跡には陸奥国府が置かれていたと考えられており、多賀城の直接の前身と言える存在であった。7世紀中葉から8世紀初頭にかけての時期の城柵は、主に河川に隣接した平地や段丘上に築かれ、郡山遺跡II期官衙で脱却するまで、郡家に倣うブロック連結構造を取っていたのが特徴である。
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