初期の執筆とサイバーパンクの進化
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「ウィリアム・ギブスン」の記事における「初期の執筆とサイバーパンクの進化」の解説
ファシスト文学としてのハードSF小説をテーマに修士号の取得を検討したギブスンは、卒業翌年に執筆を中断し、ある評論家の言葉を借りれば、パンク・レコードのコレクションを増やしたという。この時期、ギブスンは母校の映画史コースの3年間務めたことなどの様々な仕事についた。バンクーバーで開催された1980年か81年のSFコンヴェンションで見たものに我慢できなくなり、同じパネリストであり、パンクミュージシャンであり作家でもあるジョン・シャーリーと意気投合した。。二人はすぐに生涯の友人となった。シャーリーはギブスンに対して、初期の短編を売り、真剣に書くようにと説得した。 1977年、初めての子育てに直面し、「キャリア」のようなものに絶対的な情熱を持っていなかった私は、12歳の息子がSFに興味を持っていることに気がついた。それと同時に、ニューヨークやロンドンから不気味な音が聞こえてきた。私はパンクを、10年前に社会の脇腹の奥深くに埋められていた、ゆっくりと発射された弾丸の爆発だと考えた。そして、私は書き始めた。 ウィリアム・ギブスン、「1948年から」 シャーリーを通じて、ギブスンはSF作家のブルース・スターリングやルイス・シャイナーと接触し、彼らはギブスンの作品を読んで、スターリングが言うようにそれが「画期的な素材」であり、「我々の先入観を捨てて、バンクーバーから来たこの男を拾い上げる」必要があり、「これが前に進む道である」ことに気が付いた。ギブスンは1981年の秋にコロラド州デンバーで開催されたSFコンヴェンションでスターリングと会い、4人の聴衆に向けて最初のサイバースペースの短編小説「クローム襲撃」を朗読し、後にスターリングは「完全に理解してた」と述べている。 1982年10月、ギブスンはアルマジロコン出席のためにテキサス州オースティンを訪れ、シャーリー、スターリング、シャイナーとともに "Behind the Mirroshades: A Look at Punk SF" (ミラーシェードの向こう側:パンクSF概観)と言うパネルに登壇し、このパネルでシャイナーは「ムーブメントの感覚が固まった」と指摘している。ロックンロール、MTV、日本、ファッション、ドラッグ、政治について話し合った週末を終え、「新しい枢軸ができた」と冗談交じりに宣言し、幹部たちを残してバンクーバーに向けて出発した。スターリング、シャイナー、シャーリー、ギブスンはルーディ・ラッカーとともに急進的なサイバーパンク文学運動の中核を形成していった。
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