初期の執筆活動
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1881年にバカロレアを取得した後、チュニジアで1年間の兵役を務めた。1882年10月に法律の勉強のためにパリに出た。散文詩「怪物と小悪魔」(『聖体行列の仮祭壇』第2巻「道の薔薇と棘」所収)では、故郷サン=タンリを去る日のことが、「傲慢の鶏冠」をつけて「広大な運命の渦巻く坩堝、パリへ」と表現されている。パリでは、当時ジャーナリストとして活躍していた小説家・劇作家アンリ・ラヴダン(フランス語版)が明け渡したパリ5区モンジュ広場(フランス語版)のアパートに入った。早くも翌11月のプロヴァンス・クラブの結成式でパリ国立オペラの歌手マリー・アマンがサン=ポル=ルーの散文詩「ママン!」を朗読し、好評を博した。この作品は翌年、ポール・オランドルフ(フランス語版)が設立したばかりの出版社から刊行された。 1883年に初めてブルターニュ地方を訪れ、ヴァンヌに滞在した。このときの経験から後に戯曲『農家』を制作することになるが、サン=ポル=ルーはこの後もたびたびブルターニュ地方に滞在し、ブルターニュを題材とする詩を多く発表している(代表作『聖体行列の仮祭壇』もブルターニュの伝統的な行事パルドン祭に因むものであり、1898年にはパリを去ってブルターニュのロスカンヴェルに定住し、その風土に深く根を下ろすことになる)。ヴァンヌからロンドンに向かった。『聖体行列の仮祭壇』第3巻「内なる妖精郷」所収の「ハイド・パーク」はこのときに書かれた詩である。同年にオーギュスト・ギオ出版社から刊行されたヴィクトル・ユーゴーに捧げる詩劇『詩人!』は、マルセイユの週刊紙の書評で「『ママン!』の作者の魅力が至るところに散見される」と評され、バラード『公爵夫人の夢』はコメディー・フランセーズの女優ブランシュ・バレッタにその優雅さを称えられた。また、劇作家・俳優のフェリックス・ガリポー(フランス語版)に捧げられた『奇妙な死』は最初の独演劇である。
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