初期の大司教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 15:59 UTC 版)
既存のダブリン司教であったグレゴリーは最初の大司教に昇格し、キルデア司教、リーリン司教、フェルンズ司教、そしてグレンダーロッホ司教は彼に報告をしていた。2人目の大司教はローレンス・オトゥール(英語版)で、先のグレンダーロッホ大修道院長であり、以前にグレンダーロッホ司教に選ばれていたが辞退していた。彼が職務についている間に、大陸から宗教的な命令がアイルランドに送られたが、その傾向の一部としてローレンスはクライストチャーチ大聖堂にアルエーズ会則(en:Arrouaise。聖アウグスチノ修道会の会則を改めたもの)によって統治される司教のコミュニティーを設立した。 12世紀になるとアイルランドからヴァイキング勢力は消え、代わってイングランドがアイルランドに影響力を持つようになる(ノルマン人のアイルランド侵攻)。アイルランドの政治的な状況は入植を始めたノルマン人、そしてイングランドの圧力によって変化したが、アイルランド教会も同様に変化していった。ローレンスの後継はノルマン人であったが、宗教改革のときにいたるまで大司教は、1484年から1511年までの大司教ウォルター・フィッツシモン (Walter Fitzsimon) 一人がアングロ・アイリッシュ(アイルランドに入植したイングランド人)であった以外は全員がイングランド人であった。高い地位にある教会の団体は大きな政治的影響力を持ち、実際に多くのダブリン大司教はイングランドの王威のために市民権限を行使していた。マグナ・カルタにおいても当時の大司教ロンドンのヘンリ(英語版)は連署人として他のイングランド人司教とともに名を連ねている。 1185年、教皇はグレンダーロッホ司教区とダブリン司教区統合という嘆願書の願いを聞き入れ、これはグレンダーロッホ司教ウィリアム・ピロが死去した1216年にインノケンティウス3世の許可の下で行われた。今日でもこの2つの司教区は統合されたままである。
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