初期の天皇の絶対年代と寿命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:57 UTC 版)
「日本書紀」の記事における「初期の天皇の絶対年代と寿命」の解説
歴代天皇の在位期間の問題は、初期の天皇の不自然な長寿についてである(神武天皇は崩御時127歳、崇神天皇は120歳、応神天皇は110歳)。そして彼らに関わる紀年を西暦に置き換えると到底史実とはみなし難い年代が得られる。例えば神武天皇即位前記の東征開始の年、「太歳甲寅」は西暦に換算すると紀元前667年となり、これは天孫降臨から179万2470年後のことであったという。現代ではこのような『日本書紀』の年代設定は架空のもので、推古朝の頃に中国の讖緯説(陰陽五行説にもとづく予言・占い)に基づいて、神武天皇の即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年に設定したと考えられている。神武天皇の即位年が讖緯説によって設定された作為によるものであるという見解は早くも江戸時代に伴信友などによって指摘され、明治時代に那珂通世によって現代の通説が打ち立てられた。 讖緯説は干支が一周する60年を一元、二十一元(1260年)を一蔀として特別な意味を持たせるもので、後漢代の学者鄭玄が『易緯』の注の中で述べているものである。那珂通世の結論は、推古天皇9年(601年)、辛酉の年を起点として、一蔀遡った前660年、辛酉の年が神武天皇元年として設定されたというものである。 また、初期の天皇の不自然に長い寿命を説明する説として春秋二倍暦説がある。これは古い時代には春夏を1年、秋冬を1年と数えていたが、『日本書紀』編纂時にはこれが忘れ去られていたため天皇の年齢が2倍になったという仮説である。この説は明治時代にデンマーク人ウィリアム・ブラムセンが初めて唱えたもので、戦後には幾人かの日本人学者が『三国志』のいわゆる「魏志倭人伝」の注釈に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す)」とあることを論拠にこの説を展開した。これとは別に、『日本書紀』には記事がない空白の年が多数あることから、記事がある年のみが実際の紀年であり、記事の空白期間を省くことで実際の年代を復元できるという説(復元紀年説)も存在する。これらの説は、その後の「倭の五王」の時代の編年との接続に問題を抱えており、広く受け入れられてはいない。
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