初期の大阪の郊外住宅地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 06:36 UTC 版)
「阪神間モダニズム」の記事における「初期の大阪の郊外住宅地」の解説
昭和16年(1941年)の阪神間鉄道路線図 大阪周辺の郊外住宅地は、元々、別荘地の開発から始まった。 「明治の半ば頃、船場・島之内の旦那衆の間に上町の桃山あたりに別荘をつくり、客を招待したり閑日にのんびりすることが流行した」 というように、富裕層によって比較的環境の良い手近な所で始まったそれらが鉄道の開通とともに、さらに環境の良い天下茶屋・浜寺など大阪南部、あるいは阪神間へと広がっていった。特に阪神問では、1907年に大谷光瑞が現在の神戸市東灘区に「二楽荘」と名付けた別荘や、当時の大阪府立高等医学校校長の佐多愛彦が芦屋山手に結核予防に良い保養地として別荘(松風山荘住宅地の前身)の建設を行い、人々に注目されるようになった。 こうした富裕層の別荘地から多くの人々が居住する郊外住宅地になったのは鉄道敷設による都心へのアクセスの改善によるところがおおきく、中でも阪神間は山側の阪急電鉄からJR西日本、浜側の阪神電鉄と3本の鉄道路線があり、大阪郊外の他の地域に較べ、極めて交通条件の恵まれた地域であった。
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