初期の外交キャリア (1880-1901)
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「ポール・ボー」の記事における「初期の外交キャリア (1880-1901)」の解説
1880年5月にフランス外務省の官房に「配属認可」されて、ポール・ボーの外交キャリアが始まった。この「配属認可 « attaché autorisé »」は、正式の資格を持って外務省の職員になったのではなく、彼に外務省官房による(配属の)認証が下りて職員になったことを意味する。当時はシャルル・ド・フレシネが首相であった。フレシネは穏健な共和主義者であった。フレシネの支持により若き配属職員ポール・ボーの一連の出世に利便が図られた。 当初ポール・ボーは中央行政か内閣官房で働き、この時期の見事な働きぶりのおかげで、見かけ以上に政治的な指導力があることを示すことができた。1883年の初めにジュール・フェリーが首相になると、ボーはシャルマン=ラクール(フランス語版)外相の官房に「配属認可」職員として再任される。同年11月にフェリーが外交問題の指揮を執ったときには、「配属 « attaché »」の肩書を得た(1884年1月)。1887年6月、エミール・フルーラン(フランス語版)外相のもとで昇進し、« attaché payé »となった。 1888年12月28日に、ローマのクイリナーレ宮の三等秘書官の候補として名前が挙がり、外交官になる道筋が立ったが、この予定は少々延期された。結局1889年7月に学士院の職員としてポール・ボーはパリへ戻り、1891年4月にフレシネの新内閣の下で外相を務めるアレクサンドル・リボー(フランス語版)の官房に入った。1892年11月、外相の政務室長となり、1893年2月には二等秘書官となった。 ガブリエル・アノトー(フランス語版)が1894年5月31日に外相に就任してからは、さらなる昇進の機会を得た。1895年11月1日に政府が瓦解するまで、外務省の長官補佐に就任した。のちに最も信頼の厚い政友の一人となるレオン・ブルジョワが外務に当たることになり、このときの1896年4-5月、ポール・ボーは一時的に外務省の長官となった。 その一方で、ボーは前年までに「常設研修委員会 « commission permanente du stage »」の一員となっていた。この委員会は、第三共和政において初めて設置されたものであり、外交官の質の確保を目的として、外交官候補に成果を互いに競わせるものである。この委員会は誰を加入させて誰を加入させないかを決定する決定機関となり得たため、ある種の "cooptation" として生き残っていた。"cooptation" とは現会員が新規会員を指名する組織のことを指す。ボーはこの委員会に1900年4月まで参加したが、自分の考えを新しく入れるようなことなく今まで通りの基準で外交官を選んだ。確かに、共和制が確立するにしたがって新しい団体が現れていた。前時代の保守的貴族階級の富裕層から共和思想を受け継いだ専門職階層こそがポール・ボーを輩出した階層である。 テオフィル・デルカッセの外相就任時の1898年7月、秘書局の人事課課長に任命されたが、1901年3月に外務省の支持を得て、ポール・ボーは外務畑に戻った。
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