ハイド‐パーク【Hyde Park】
ハイド・パーク (ロンドン)
(ハイド・パーク から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/20 04:23 UTC 版)
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ハイド・パーク Hyde Park |
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ハイド・パーク上空写真
ハイド・パークの位置。西隣はケンジントン・ガーデンズ。
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所在地 | |
公式サイト | 公式ホームページ |

ハイド・パーク (Hyde Park) は、ロンドン中心部ウェストミンスター地区からケンジントン地区にかけて存在する公園。ロンドンに8つ存在する王立公園の1つである。
概要
サーペンタイン・レイクにより敷地は二分されている。西隣のケンジントン・ガーデンズとは一体となっており、全体がハイド・パークであると考えられることも多いが、実際にはウエスト・キャリッジ・ドライヴによって区切られている。総面積は142ヘクタール (350エーカー) でケンジントン・ガーデンズの111ヘクタール (275エーカー) と合わせると253ヘクタール (625エーカー)にもなり、ニューヨークのセントラル・パークと同様の巨大な都市型公園である。
歴史・レイアウト
公園内で最も古くから残る部分はイーバリー卿の荘園跡である。この荘園の面積は1ハイド (60から120エーカー)であったとされ、これが公園の名称の由来となっている。荘園跡を含めた土地はイングランド国王ヘンリー8世によって1536年にウェストミンスター寺院から買い上げられた。公園のレイアウトは1820年代に建築家デシマス・バートンによる設計を元に建造された。ケンジントン・ガーデンズが平坦であるのに対して、ハイド・パークは隆起に富んでおり、前者と対照をなしている。
1851年には世界初の万国博覧会であるロンドン万国博覧会の会場となり、ジョセフ・パクストンの設計した水晶宮が公園内に建造された。万博終了後、水晶宮はロンドン南方のペンジ地区シデナムに移転され、その後の火災により焼失している。1982年7月20日にはハイドパークで爆弾テロ事件が発生した。IRA暫定派が引き起こしたこのテロによって馬7頭およびブルース・アンド・ロイヤルズとロイヤル・グリーン・ジャケッツの兵士8名が死亡した。
ロック・コンサートも頻繁に開かれており、ジェスロ・タル (1968), ローリング・ストーンズ (1969),ブラインド・フェイス (1969),ピンク・フロイド (1970), ロイ・ハーパー (1971), クイーン (1976),エリック・クラプトン (1996), レッド・ホット・チリ・ペッパーズ (2004),フー・ファイターズ (2006), ブラー (2009)などが公演を開いている。2005年にはライヴ8の会場ともなった。ビートルズのアルバム『ビートルズ・フォー・セール』は1964年の秋に公園内で撮影されている。
2007年から毎年冬になると、ハイド・パーク・ウィンターワンダーランドと呼ばれる移動遊園地の祭典が行われる。
グランド・エントランス
公園の正門はデシマス・ バートンの設計によるイオニア様式の建築物である。3つの馬車用アーチ門と2つの歩行者用門が設けられている。中央の門は他より大きめに作られており、4本の柱によってエンタブラチュアが支えられている。エンタプラチュアの装飾はエルギン・マーブルズを参考にしてヘニングらにより設計された。
名所
公園内の見所としては、北東のマーブル・アーチ付近に設けられているスピーカーズ・コーナー、水晶宮跡地の北側境界であるロットン・ロウ、南東にはハイド・パーク・コーナー、そしてサーペンタイン・レイクの南にはダイアナ妃のために建造されたダイアナ妃記念噴水(Diana, Princess of Wales Memorial Fountain)が存在する。
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スピーカーズ・コーナー
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ダイアナ妃記念噴水
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池沿いの散歩
フィクションにおける登場
- ロバート・ルイス・スティーヴンソンの小説『ジキル博士とハイド氏』ではハイドの死の場所となっている。
- アラン・ムーア原作のコミック『リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン』では火星人との最終決戦の場となり、そこでハイドが戦死した為にハイドパークと改名された。
- シャーロック・ホームズシリーズ。
- 2015年の映画『ピクセル』では、第3回戦の舞台となった。
外部リンク
- Official website
- Google maps ハイド・パークの位置
ハイド・パーク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/14 17:12 UTC 版)
「スピーカーズ・コーナー」の記事における「ハイド・パーク」の解説
一般に、ハイド・パークとはマーブル・アーチ近くの舗装された区域だと思われているが、実際にはリフォーム・ツリー (Reform Tree) や付近の観兵式場などの広大な区域を含む。 1855年、日曜営業規制法に反対する暴動がこの公園で発生した。同法は当時唯一の労働者の休日であった日曜日の商業活動を禁止するもので、この様子はカール・マルクスがイギリスにおける革命の始まりであるとして詳細に記述している。 チャーチスト運動ではこの公園が労働者の抗議集会の会場となったが、常設の場が設けられることは無かった。改革連盟 (Reform League) は1866年から翌年にかけて、労働者の選挙権拡大を求める大規模で激しい運動を展開した。 これら民主的改革を求める暴動や運動を受け、ハイド・パークにおける「演説する権利」について考えるものも現れた。1872年の王立公園及び庭園法 (Royal Parks and Garden's Act) では、集会の許可権限を(中央政府ではなく)公園当局に委任した。人々はこれによりスピーカーズ・コーナーにおいて自由に弁論を行う権利が得られると考えたが、実際はそうではなかった。同法に対する国会での議論では、これは公園内における集会・演説を無制限に認めるものではないとされた。しかし、公園の一部はそのような目的に使用できることとなった。 それ以来、スピーカーズ・コーナーは英国における抗議や集会のための場としてのほか、演説や議論を行う公の場として機能するようになったとされている。 ただし、かつて死刑執行のための絞首台が設置されていたタイバーンにおいて、囚人が最後に末期の言葉を語ることができたという事情に発祥を求める説もある。 スピーカーズ・コーナーで活躍した演説家の大半は、その後主流となることが無かったが、中にはカール・マルクス、ウラジーミル・レーニン、ジョージ・オーウェル、ウィリアム・モリスといった後の有名人も含まれていた。誰もが、いかなる事前手続きも必要なく、ほぼあらゆるテーマについて語ることができるという点で、スピーカーズ・コーナーの存在は言論の自由、そしてこれを行使することにより課される、批判も受ける責任を体現したものとして、しばしば支持される。 一方、特定の場所においてのみ演説を許可するのは、権力者がロンドンの公共の場の大半での言論の自由を制限するためで、スピーカーズ・コーナーはそのために利用されている、という批判もある。事実、王立公園内でもスピーカーズ・コーナー以外の場所での演説は成文法によって明確に禁止されている。たとえば19世紀後半には、ロンドン・カウンティ・カウンシル (London County Council) によって、社会主義者が集会や演説が行えるのはスピーカーズ・コーナーなどごく一部に限られていた。 2003年に公園当局は、2月15日からイラク侵略に関する演説を禁止しようとした。これは大規模な反対運動に遭い、撤回を余儀なくされた。運動は英国史上最大級の規模となり、100万人以上が参加した。 最寄り駅はマーブル・アーチである。 著名な弁士 以下の団体や個人は、スピーカーズ・コーナーでの演説に実績のあるものである。 イギリス社会党 (SPGB) (1904年から) ドナルド・ソーパー(1925年から1998年) Heiko Khoo(1986年から) Socialist Studies(1991年から)
※この「ハイド・パーク」の解説は、「スピーカーズ・コーナー」の解説の一部です。
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