出身に関する諸説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/10 00:45 UTC 版)
「ヴィシェスラヴァ・スヴャトスラヴナ」の記事における「出身に関する諸説」の解説
ヴィシェスラヴァの父に関しては諸説ある。近世の歴史家では、ヴァシリー・タチーシチェフ(ru)はキエフ大公スヴャトスラフの娘としている。一方、『グストィニャ年代記』には、ボレスワフの妻はヤロスラフの孫、ヴャチェスラフの娘であったという主旨の記述があり、これに相当するスモレンスク公ヴャチェスラフの娘とみなす説もある(その場合、彼女の父称はヴャチェスラヴナとなる)。また、ヴィシェスラヴァの父がヴャチェスラフであり、その妻をシュターデ出身のオダ(ru)という女性であるとみなすニコライ・カラムジンの説においては、ヴィシェスラヴァは父ヴャチェスラフの死後、1058年に、未亡人となったオダのドイツへの帰還に同行したとみなされている。 中世の史料においては、クラクフのヤン・ドゥウゴシュが、ボレスワフの妻はルーシのクニャージ(公)の一人娘であったという主旨の記述を残し、ヴァルミアのMarcin Kromer(ru)は、ヴィシェスラヴァの父の名は不明であるとしている。また、ヨハン・ヒュプナー(ru)は、『Genealogische Tabellen』の中で、ヴィシェスラヴァは「ヴィスラフ」[訳語疑問点]という人物の娘であるとしている。なお、ルーシのレートピシ(年代記)は、ボレスワフの妻は恥ずかしがり屋、という抽象的表現を残している。
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