ヴィシェスラヴァ・スヴャトスラヴナとは? わかりやすく解説

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ヴィシェスラヴァ・スヴャトスラヴナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/22 21:57 UTC 版)

ヴィシェスラヴァ・スヴャトスラヴナ
Wyszesława Światosławówna
ポーランド王妃
在位 1076年 - 1079年
戴冠式 1076年12月25日 グニェズノ大聖堂

出生 1047年
死去 1089年以降
結婚 1067年
配偶者 ポーランド王ボレスワフ2世
子女 ミェシュコ
家名 リューリク家
父親 キエフ大公スヴャトスラフ2世?
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ヴィシェスラヴァ・スヴャトスラヴナ(スヴャトスラヴォヴナ)ロシア語: Вышеслава Святославна(Святославовна)ポーランド語: Wyszesława Światosławówna1047年[1] - 1089年以降)はリューリク朝出身の公女であり、ポーランド王(結婚時はポーランド公)ボレスワフ2世の妻となった人物である。

生涯

1067年にポーランド公であったボレスワフ2世と結婚し、1069年に一人息子ミェシュコを産んだ。1076年のクリスマスの日に夫ボレスワフとともにグニェズノ大聖堂でポーランド王妃として戴冠されたとみられる。1079年、ヴィシェスラヴァは夫や息子とともにハンガリーに亡命した。2年後(1081/2年頃)、ボレスワフは不可解な死を遂げた。毒殺とみられている。その後1086年に、ヴィシェスラヴァは息子とともにポーランドに帰還した。ガルス・アノニムスによると、ヴィシェスラヴァは1089年に毒殺された息子ミェシェコの葬儀に参列しているが、これがヴィシェスラヴァに関する最後の記録であり、その後については不明である。

出身に関する諸説

ヴィシェスラヴァの父に関しては諸説ある。近世の歴史家では、ヴァシリー・タチーシチェフ(ru)キエフ大公スヴャトスラフの娘としている。一方、『グストィニャ年代記』[注 1]には、ボレスワフの妻はヤロスラフの孫、ヴャチェスラフの娘であったという主旨の記述があり、これに相当するスモレンスク公ヴャチェスラフの娘とみなす説もある(その場合、彼女の父称はヴャチェスラヴナとなる)。また、ヴィシェスラヴァの父がヴャチェスラフであり、その妻をシュターデ出身のオダ(ru)という女性であるとみなすニコライ・カラムジンの説においては、ヴィシェスラヴァは父ヴャチェスラフの死後、1058年に、未亡人となったオダのドイツへの帰還に同行したとみなされている。

中世の史料においては、クラクフヤン・ドゥウゴシュが、ボレスワフの妻はルーシのクニャージ(公)の一人娘であったという主旨の記述を残し、ヴァルミアMarcin Kromer(ru)[注 2]は、ヴィシェスラヴァの父の名は不明であるとしている。また、ヨハン・ヒュプナー(ru)[注 3]は、『Genealogische Tabellen』の中で、ヴィシェスラヴァは「ヴィスラフ」[注 4][訳語疑問点]という人物の娘であるとしている[2][注 5]。なお、ルーシのレートピシ年代記)は、ボレスワフの妻は恥ずかしがり屋、という抽象的表現を残している[注 6]

脚注

注釈

  1. ^ 「グストィニャ年代記」はロシア語: Густынская летопись(名詞形Густыняの転写による。ただし「Густыня」は現ウクライナ・Густиня(フストィニャ(ru))にあたる。
  2. ^ 「Marcin Kromer」はポーランド語表記による。
  3. ^ 「ヨハン・ヒュプナー」はドイツ語: Johann Hübnerによる。出生地は現ポーランドのBogatynia(ru)
  4. ^ 「ヴィスラフ」はロシア語: Выслава生格)に基づく転写による。
  5. ^ なお、帝政ロシア期のミハイル・ロモノーソフは、これを「ヴャチェスラフ」であると訂正している。
  6. ^ 「恥ずかしがり屋」はロシア語: девицей красной造格)の慣用表現的訳[3]。直訳では真紅(ロシア語の「赤」には美しい・高貴のニュアンスを含む場合がある)の乙女(処女)。

出典

  1. ^ Genealogía, Reyes y Reinos by Nicolas Homar
  2. ^ Huebner J.: Genealogische Tabellen, nebst denen darzu gehoerigen genealogischen Fragen, zur Erlaeutering der politischen Historie. Th. 1-3. — Leipzig , 1725-1728.
  3. ^ 『コンサイス露和辞典』p188

参考文献

  • Назаренко А. В. Древняя Русь на международных путях: Междисциплинарные очерки, культурных, торговых, политических отношений IX—XII веков. — М.: Языки Русской Культуры, 2001. — 784 с.
  • Экземплярский А. В. Вышеслава Вячеславовна // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона(ブロックハウス・エフロン百科事典): В 86 томах (82 т. и 4 доп.). — СПб., 1890—1907.
  • 井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年



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