ボレスワフ2世 (ポーランド王)とは? わかりやすく解説

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ボレスワフ2世 (ポーランド王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/04 21:16 UTC 版)

ボレスワフ2世
Bolesław Śmiały
ポーランド王
在位 1076年 - 1079年
戴冠式 1076年12月25日 グニェズノ大聖堂

出生 1042年
ポーランド王国
死去 1081/2年
ハンガリー王国
埋葬 神聖ローマ帝国
ケルンテン公領、オッシアッハ修道院?
配偶者 ヴィシェスラヴァ・スヴャトスラヴナ
子女 ミェシュコ
家名 ピャスト家
父親 カジミェシュ1世
母親 ドブロネガ・ウラジミロヴナ
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ボレスワフ2世Bolesław Śmiały, 1042年 - 1081/2年)は、ポーランド王(在位:1076年 - 1079年)。1058年から1076年まではポーランド公であった。「大胆王」(the Bold)、「寛大王」(the Generous)とも呼ばれた。カジミェシュ1世キエフ大公マリアの息子でヴワディスワフ1世ヘルマンの兄。

生涯

後世、ピャスト家出身の君主の中でも有能な人物と評された。治世の間は国中に教会を建て、1075年にはグニェズノ司教座を再設置した。ベネディクト会派修道院を、ヴロツワフルブリン、モギルノに建てた。また、ポーランド初の硬貨鋳造が行われた。

しかし1079年、敵対していたクラクフ司教スタニスワフを、ミサを挙げているところを捕らえ殺害した。これが発端となって国を追われ、妻子を連れてハンガリー王国へ亡命した。1082年頃に死んだと伝えられているが、埋葬場所は現在も不明である。

弟のヴワディスワフ1世が即位したが、王ではなく公としてであった。ポーランド王位の復活は216年後の1295年プシェミスウ2世が即位した時であった。




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