アンナ (ポーランド女王)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/21 23:18 UTC 版)
アンナ Anna Jagiellonka |
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ポーランド女王 リトアニア女大公 |
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在位 | 1575年12月13日 - 1586年または1596年 |
戴冠式 | 1576年5月1日 |
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出生 | 1523年10月18日![]() |
死去 | 1596年9月9日(72歳没)![]() |
埋葬 | 1574年2月10日 ![]() |
配偶者 | ステファン・バートリ |
王朝 | ヤギェウォ朝 |
父親 | ジグムント1世 |
母親 | ボナ・スフォルツァ |
サイン | |
アンナ(Anna Jagiellonka, 1523年10月18日 - 1596年9月9日)は、ポーランド・リトアニア共和国の女王(在位:1575年 - 1586年または1596年)。ヤギェウォ朝のジグムント1世の娘で、母はボナ・スフォルツァ。ジグムント2世の妹である。
生涯

1572年にジグムント2世が世継ぎなく没すると、シュラフタ(ポーランド貴族階級)は自由選挙によって新王を選出するとした。アンナも候補の一人に挙げられたが、むしろ次期国王の王妃に擬せられる立場にあった。アンナはフランス王シャルル9世の弟アンリ(のちのアンリ3世、ポーランド名ヘンリク・ヴァレジ)を夫に迎えたい意向を示し、その影響もあってセイム(議会)は1573年にアンリを新国王に選んだ。しかしアンナと28歳年下のアンリとの結婚交渉は難航し、1574年6月にアンリがフランス王位を継承するためにポーランドから逃亡したことで、この縁談は完全に失敗に終わった。
1575年にアンリの王位失効宣言が出された後、セイムはアンナとの結婚を条件に、トランシルヴァニア公バートリ・イシュトヴァーン(ステファン・バートリ)に王位を与えることを決めた。1576年3月にクラクフに到着したステファンは、5月1日にアンナと結婚して夫妻で戴冠式に臨んだ。この時アンナは14世紀のヤドウィガ女王の例を踏襲し、「女王」(Regina Poloniæ)ではなく、男性君主を指す「国王」(Rex Poloniæ)として即位し、その上でステファン・バートリがヤドヴィガの夫ヴワディスワフ2世と同じく「妻の権利によって(en)」主権者となり、ポーランド王に推戴された。王朝の血統的な正統性はあくまでアンナにあったが、彼女は夫の共同統治者の身分に置かれており、国政に積極的に参与することはなかった。
1576年に結婚した時すでに50歳を過ぎていたアンナに子供はなく、妹カタジナの長男であるスウェーデン王太子シギスムントを引き取り、夫ステファンが死去するとこの甥をジグムント3世としてポーランド王に即位させた。アンナは女王の称号を帯びたまま、1596年にワルシャワで崩じた。
参考文献
- 小山哲「ヘンリク・ヴァレジィ体験 ヤギェウォ王朝断絶前後のポーランド=フランス関係」『ヨーロッパ研究の新地平 ポーランドからのまなざし』(中山昭吉、松川克彦編)昭和堂 2000年 ISBN 4-8122-0009-1
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「アンナ (ポーランド女王)」の例文・使い方・用例・文例
- 主役を演じるにはアンナよりクリスの方が向いている
- アンナプルナはヒマラヤ山脈の中央山塊だ。
- アンナとジェームズが別れてから2ヶ月が過ぎました。
- 「アラビアンナイト」などの)魔法のじゅうたん 《この上に座ると希望の所へ運ばれる》.
- 厳格なアンナおばさんは、私のミニスカートをよく思わない
- 彼の良心は、彼の息子を強制した連邦のあいまいな特徴を非難した−アンナ・ジェームソン
- 北東アルジェリアの今日におけるアンナバに隣接する北西アフリカの古代ヌミディアの町
- 『アラビアンナイト』に登場する魔人を呼び出す魔法のランプを手に入れた少年
- アンナという,米国の測地衛星
- ポカラは,アンナプルナ地帯へのトレッキング・ルートの出発点として有名だ。
- グウィネス・パルトローがモルデカイの賢く美しい妻ジョアンナを演じている。
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