ミェシュコ3世とは? わかりやすく解説

ミェシュコ3世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/06 21:52 UTC 版)

ミェシュコ3世
Mieszko III Stary
ポーランド大公
ミェシュコ3世老公
在位 1173年 - 1177年1191年 - 1194年1198年 - 1199年1202年

出生 1121年
死去 1202年3月13日
配偶者 エルジェーベト
  エウドクシア
子女 一覧参照
家名 ヴィエルコポルスカ・ピャスト家
父親 ボレスワフ3世クシヴォウスティ
母親 サロメ・フォン・ベルク=シェルリンゲン
テンプレートを表示

ミェシュコ3世スタルィMieszko III Stary, 1121年? - 1202年3月13日)は、ポーランド大公(在位:1173年 - 1177年、1191年 - 1194年1198年 - 1199年、1202年)。ボレスワフ3世と2度目の王妃サロメ・フォン・ベルク=シェルリンゲン英語版の4男として生まれた。ヴワディスワフ2世の異母弟、ボレスワフ4世の同母弟、ヘンリク、カジミェシュ2世の同母兄。

長命であったことから老公(the Old)と呼ばれた。ヴィエルコポルスカ・ピャスト家の祖。

生涯

父が国を5分割して息子達に相続させ、クラクフ領を年長の者が治めポーランド大公となると遺言状に定めたことから、ポーランドは分裂の時代にあった。ミェシュコはヴィエルコポルスカ公であった(この地方は彼の子孫によって継承されていく)。

1173年、同母兄ボレスワフ4世の死後ポーランド大公となるが、弟のカジミェシュ2世によってその座を追われ、ヴィエルコポルスカ公位も長男オドンに奪われた。しかし、復位の野望を捨てず、1202年に亡くなるまで4度もクラクフへ舞い戻り、大公位の奪回、廃位を繰り返した。1202年に甥のレシェク1世(カジミェシュ2世の子)から大公位を奪い、4度目の大公になった直後に81歳で死去。末子のヴワディスワフ3世が大公位を継いだ。

オドンはミェシュコ3世に先立って亡くなっていたため、孫のヴワディスワフ・オドニツがヴィエルコポルスカを継いだが、幼少のためヴワディスワフ3世が後見人となった。

子女

1140年頃、ハンガリーベーラ2世の娘エルジェーベトと結婚。

1154年頃、キエフ大公エウドクシアイジャスラフ2世の娘)と結婚。

先代
ボレスワフ4世
ポーランド大公
1173年 - 1177年
次代
カジミェシュ2世
先代
カジミェシュ2世
ポーランド大公
1191年 - 1194年
次代
カジミェシュ2世
先代
レシェク1世
ポーランド大公
1198年 - 1199年
次代
レシェク1世
先代
レシェク1世
ポーランド大公
1202年
次代
ヴワディスワフ3世




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ミェシュコ3世」の関連用語

ミェシュコ3世のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ミェシュコ3世のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのミェシュコ3世 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS