ビトムとオシフィエンチム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/16 22:54 UTC 版)
「ミェシュコ1世プロントノギ」の記事における「ビトムとオシフィエンチム」の解説
1177年、ミェシュコ1世は名前をくれた叔父ミェシュコ3世(老公)がクラクフ公国に対する支配を維持するための戦いを支援した。この争いは、クラクフ公国及び長子権の獲得を狙う兄ボレスワフ1世と叔父を助けるミェシュコ1世との間の争いを再燃させた。しかし、クラクフを奪取しようとするボレスワフ1世の野心は、これを危ぶんだミェシュコ1世とヤロスワフによる再度の反抗に苦しめられた。 そこでボレスワフ1世は一番年若い叔父であるカジミェシュ2世(正義公)と同盟し、カジミェシュ2世はクラクフを奪取してポーランド大公を称した。弟に大公の座を追われたミェシュコ3世は、ラチブシュのミェシュコ1世の許に亡命し、ミェシュコ1世とカジミェシュ2世の戦争発生は確実と思われた。しかしカジミェシュ2世はミェシュコ1世との友好関係を構築する道を選び、ミェシュコ1世にビトムとオシフィエンチム(及びビトムとオシフィエンチムの要塞、ミコウフ、シェヴィエシュ、プシュチナ)を与えた。一方でボレスワフ1世はドイツへ再度亡命、カジミェシュ2世の調停で帰国したが、同じくドイツから帰国した末弟コンラトがシロンスクに対する相続権を主張し、グウォグフを分割譲渡するのを余儀なくされると、1173年の分割もあって彼の権勢はますます衰えた。
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