エヴドキヤ・イジャスラヴナとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > エヴドキヤ・イジャスラヴナの意味・解説 

エヴドキヤ・イジャスラヴナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/11 09:32 UTC 版)

エヴドキヤ・イジャスラヴナ
Eudoksja Izjasławówna
ポーランド大公
在位 1173年 - 1177年

出生 1136年
死去 1187年
配偶者 ポーランド大公ミェシュコ3世
子女 ボレスワフ
ミェシュコ
サロメア
アナスタジヤ
ヴワディスワフ3世
ズウィニスワワ
家名 リューリク家
父親 キエフ大公イジャスラフ
母親 アグネス・フォン・ホーエンシュタウフェン
テンプレートを表示

エヴドキヤ・イジャスラヴナロシア語: Евдокия Изяславнаポーランド語: Eudoksja Izjasławówna。1136年頃 - 1187年頃)はリューリク朝の公女である。ヴィエルコポルスカ公(クラクフ公)ミェシュコ3世の2人目の妻。

生涯

エヴドキヤは、キエフ大公イジャスラフとその妻アグネス(ドイツ王コンラート3世の娘)との間に生まれた。1154年にミェシュコと結婚したが、この当時ミェシュコは他のポーランド諸公やドイツ勢力に対抗すべく、ル-シに同盟者を求めての結婚であった。ただし、同年11月にエヴドキヤの父イジャスラフは死亡する。

1173年、夫ミェシュコの兄ボレスワフ(ポーランド大公ボレスワフ4世)が死亡すると、ミェシュコはクラクフを受領し、兄の後をついでヴィエルコポルスカ公となった。このころ、どうやらエヴドキヤは夫ミェシュコに対する強い影響力を有しており、ミェシュコは、別の妻の子であるオドンよりも、エヴドキヤとの間の子を寵愛するようになっていた。これを不服とするオドンは、1177年に父ミェシュコをクラクフから追放した。その後、ミェシュコと共にエヴドキヤは庇護者の下を転々とすることとなる。

1199年、ミェシュコはクラクフに戻るが、この時期にはエヴドキヤに関する記録は残されていない。

子女

夫ミェシュコとの間に以下の6人の子がいる。

出典

  • Satała Z., Poczet polskich królowych, księżnych i metres, Warszawa 1990
  • Balzer O., Walka o tron krakowski w latach 1202 i 1210/11, Kraków 1894
  • Baumgarten N. Généalogies et mariages occidentaux des Rurikides Russes du X-e au XIII-е siècle // Orientalia Christiana. — Roma, 1927



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  エヴドキヤ・イジャスラヴナのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「エヴドキヤ・イジャスラヴナ」の関連用語

1
32% |||||

エヴドキヤ・イジャスラヴナのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



エヴドキヤ・イジャスラヴナのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのエヴドキヤ・イジャスラヴナ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS