ミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキとは? わかりやすく解説

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ミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/22 13:46 UTC 版)

ミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキ
Michał Korybut Wiśniowiecki
ポーランド国王
リトアニア大公
在位 1669年6月19日 - 1673年11月10日
戴冠式 1669年9月29日
別号 リトアニア大公

出生 1640年7月31日
ヴィシニョヴィエツ、ポーランド(現ウクライナ領)
死去 (1673-11-10) 1673年11月10日(33歳没)
リヴォフポーランド(現ウクライナ領)
埋葬 1676年1月31日 
ヴァヴェル大聖堂、クラクフ
配偶者 エレオノーレ・マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ
家名 ヴィシニョヴィエツキ家
父親 イェレミ・ヴィシニョヴィエツキ
母親 グリゼルダ・コンスタンツィア・ザモイスカ
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ミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキ(Michał Korybut Wiśniowiecki, 1640年7月31日 - 1673年11月10日)は、ヴィシニョヴィエツキ家出身のポーランド・リトアニア共和国国王(在位:1669年 - 1673年)。

退位したヤン2世の後を受けて国王に選出されたが、何ら業績を挙げられず、交戦国との弱腰外交に徹した。逆に前国王ヤン2世に軍司令官に任命されたヤン・ソビエスキがポーランド内戦(大洪水時代)後のオスマン帝国との戦争で功績を挙げたため、ミハウは国内からの貴族層の支持を失う。在位わずか4年で没し、ヤン・ソビエスキが新国王に選出された。

ヤン・マテイコによる肖像画
先代
ヤン2世
ポーランド王
リトアニア大公
1669年 - 1673年
次代
ヤン3世




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