ヤン・ソビエパン・ザモイスキ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/09 03:30 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動ヤン・"ソビェパン"・ザモイスキ Jan "Sobiepan" Zamoyski |
|
---|---|
|
|
|
|
出生 | 1627年1月9日 |
死去 | 1665年4月2日(38歳没) |
配偶者 | マリー・カジミール・ド・ラ・グランジュ・ダルキアン |
子女 | ルドヴィカ カタジナ |
家名 | ザモイスキ家 |
父親 | トマシュ・ザモイスキ |
母親 | カタジナ・オストログスカ |
ヤン・"ソビェパン"・ザモイスキ(ポーランド語表記:Jan "Sobiepan" Zamoyski, 1627年1月9日 - 1665年4月2日)は、ポーランド・リトアニア共和国の大貴族(マグナート)。大法官として権勢を振るったヤン・ザモイスキの孫で、ザモシチの第3代オルディナト。
生涯
1637年よりポドレ総代官、1653年より王冠領クライチィ官(肉切分け係)、1655年より王冠領副酒膳官を務めた。また1658年よりキエフ県知事、1659年よりサンドミェシュ県知事に任じられ、カウシュとロストキの代官でもあった。あだ名のソビェパンは「自分自身の主人」という意味で、「大洪水」の時にスウェーデン人がザモイスキの支配するザモシチの要塞を攻め、さらに要塞の明け渡しを迫ってきたとき、「私は自分自身の主人であるから、ザモシチをスウェーデン人に明け渡すつもりは毛頭ない」と返答したことにちなむものである。
彼はヤン2世カジミェシュのフランス出身の王妃ルドヴィーカ・マリア・ゴンザーガの侍女マリー・カジミール・ド・ラ・グランジュ・ダルキアン(マリア・カジミェラ)と結婚したが、あいだに生まれた4人の子供たちは全て生まれてすぐに死ぬか、死産だった。ヤンの死後、妹の息子にあたるミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキが国王に選出されている。またミハウの死後に王位についたのは、マリア・カジミェラの再婚相手ヤン・ソビェスキだった。
|
|
固有名詞の分類
ザモイスキ家 |
ヤン・ザモイスキ アンジェイ・ザモイスキ トマシュ・ザモイスキ ヤン・ソビエパン・ザモイスキ |
- ヤン・ソビエパン・ザモイスキのページへのリンク