コスチャンティーン・ヴィシュネヴェーツィクィイとは? わかりやすく解説

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コスチャンティーン・ヴィシュネヴェーツィクィイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 04:23 UTC 版)

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コスチャンティーン・ヴィシュネヴェーツィクィイ
紋章
称号 ベルズ県知事(1636年1638年
ルーシ県知事(1638年1641年
身分 貴族公爵
家名 ヴィシュネヴェーツィクィイ家
民族 ルーシ人
生没 1595年 - 1657年8月6日
出生 リトアニア大公国
死亡 ポーランド王国ザロージュツィ町
宗教 正教徒
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コスチャンティーン・ヴィシュネヴェーツィクィイウクライナ語: Костянтин Вишневецький)、コンスタンティ・ヴィシニョヴィエツキポーランド語: Konstanty Wiśniowiecki1564年 - 1641年5月31日)は、ポーランド・リトアニア共和国貴族ルーシ人、ヴィシュネヴェーツィクィイ家の10代当主である。

概要

チェルカースィ代官地(1620年1633年)、カームヤネツィ代官地(1633年 - 1636年)の代官、ならびにベルズ県(1636年 - 1638年)、ルーシ県1638年 - 1641年)の知事を務めた。政治・行政・軍事などにおいて活躍し、支配下におかれたウクライナの経済発展に大きく貢献した。モスクワ大公国動乱時代において偽ドミトリー1世を支持した。1603年に私兵とコサックを率いてモスクワへ入城したが、偽ドミトリー1世の暗殺後、ロシア人によって捕らえられ、コストロマの牢屋に入れられた。1608年7月、和平交渉の結果、解放されたが、その後も、モスクワ大公国へ出兵し、至聖三者聖セルギイ大修道院の包囲に参陣した。また、ヴワディスワフ4世による出兵にも関わった。1641年6月21日にルーシ県ザロージュツィ町で葬られた。

家族

  • 父:コスチャンティーン・ヴィシュネヴェーツィクィイ(?‐1574年)、ジトーミル代官地の代官、キエフ県の知事
  • 母:アンナ・エレジュベタ・スヴェルシュ
  • 妻:アンナ・ザホールシカ(1583年‐1603年)
    • マリアナ・ヴィシュネヴェーツィカ(1584年 - 1624年)
    • ヤーヌシュ・ヴィシュネヴェーツィクィイ(1598年 - 1636年)、リトアニア大公国ヘトマン
    • オレクサーンドル・ヴィシュネヴェーツィクィイ(? - 1638年)、チェルカースィ代官地の代官。
    • オレーナ・ヴィシュネヴェーツィカ(? - 1660年)
  • 妻:ウルスーラ・ムニーシェク(1603年‐1628年)、マルィーナ・ムニーシェクの姉妹。
    • フェオフィーラ・ヴィシュネヴェーツィカ(? - 1645年)
    • アンナ・ヴィシュネヴェーツィカ(? - ?)
  • 妻:カテルィーナ・コルニャークト(1628年‐1635年)
  • 妻:オレーナ・フルィスティーナ・スチゥルーシ(1635年‐1641年;1647年に死去)

参考文献

外部リンク




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