ボリスとの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 08:04 UTC 版)
ベーラが盲目であったことから、妃イロナが政治で重要な役割を担うことになった。即位から少し後に、アラドで行われた集会で、盲目の王を敬わなかったという理由から、彼女は集まった人々を虐殺するよう命じた。また彼女は兄ベロシュを辺境伯に取り立て、ハンガリー軍総司令官の地位を与え、宮廷の要職にも就かせた。 ベーラの治世の間、カールマーン1世が認知を拒んだ子であるボリス・コンラドとの戦いが絶えずあった。ボリスはポーランド王国と、生母の実家であるキエフ大公国の軍事支援を受けた。1132年、ポーランド王ボレスワフ2世はポーランド=キエフ大公国連合軍を率いてハンガリーへ遠征した。ボレスワフ2世の侵攻を知らされたとき、ベーラは貴族を集め会合を開いていた。その場でボリスを私生児であると宣誓しない者たちを、ベーラは殺させた。ボレスワフ2世とボリスはスラナ川(現在スロバキア=ハンガリー国境となっている)近郊でハンガリー軍に打ち負かされたが、この後幾度もボリスは自身の権利を主張して侵入を繰り返すことになる。
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