近世の栄華
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 18:25 UTC 版)
戦国時代後期、尾道は毛利氏の支配下に置かれた。毛利氏は自分の家臣を配置したのではなく、尾道の豪商たちと私的な主従関係を結ぶことで尾道を支配した。文禄4年(1595年)毛利氏は商人の中から代官を決め、商人による自治は続いた。花隈城の戦いで敗れ毛利氏へ亡命してきた荒木村重が尾道で隠遁しており、古寺の庵で茶の湯を嗜んだと伝わる(尾道へのわび茶文化の伝来)。尾道の商人は豊臣秀吉の朱印船貿易にも絡み、文禄・慶長の役の際には尾道の商人が船を出し輸送に関わっている。 江戸時代、この地は広島藩領となる。尾道は藩内随一の港町「広島藩の台所」として最盛期を迎える。 「町」の制定 江戸時代初期、藩により農業区域として“村”と商工業区域として“町”に明確に区別された。慶長6年(1601年)福島氏(福島正則)による検地で尾道は町に定められた。のち福島氏は改易され浅野氏が入封すると、浅野氏は福島氏藩政を踏襲し補強する形で藩整備を進めた。寛永15年(1638年)浅野氏による検地で町方「尾道町」が定められた。 当初は5人の豪商から町年寄を、その下に12組60人の月行司を選出し、堺・京都・博多などと同様に商人による自治行政が行われていた。藩政改革「正徳新格」に伴い正徳5年(1715年)尾道に町奉行が置かれその下に商人から選出された町年寄・組頭・月行司を再編成することになり、藩権力の下ではあったが町人による町政は続いた。 官道整備 [全画面表示] .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 出雲街道の碑。「出雲大社道」「本道三十七里」「近道三十三里」 長江の道標。「左 いづも往来」「右 天満宮道」 福島氏は近世山陽道「西国街道」も再整備を行い、この時から街道は瀬戸内海沿岸に移され尾道の町中に通ることになった。尾道は中世から沿岸の埋立が進んだため近世初期には道を通すことができるようになっていた。のち広島藩領は浅野氏が治め、新たに水野氏による備後福山藩が興ると、譜代大名である福山藩と外様大名である広島藩の国境として、元和5年(1619年)尾道の東にある防地峠に関所が設けられている。寛永10年(1633年)までに街道に一里塚が置かれるなど整備が完了し、同年には幕府から公式の宿駅に指定された。 また幕府直轄領となった石見銀山から銀を運ぶため、1610年代に銀山奉行大久保長安により石見銀山街道が整備される。整備当初はまだ海路より陸路のほうが安全であったためであり、石見から運ばれた銀は尾道で船に積み込まれ大阪まで運ばれていった。この道は途中赤名峠で分岐し出雲へ向かうルートとしても整備されたことから、『芸藩通志』では「石見路出雲赤名超」、尾道では特に「出雲街道」と呼ばれている。それにより尾道は山陰地方との人・物流の交流点となった。 西廻海運による交易 [全画面表示] 周辺の主な港。赤が広島藩の港。 .mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} 尾道 西廻海運の主な寄港地 江戸時代初期、徳川家康の朱印船貿易で恩恵を受けたが、徳川家光が制定した鎖国制度以降海外交易が禁止されたため、商人たちは弱体化し没落した豪商も出た。 寛文12年(1671年)、西廻海運、つまり北海道・東北地方を起点に日本海から瀬戸内海をまわり大阪そして江戸に至る海運ルートが確立し、尾道には北前船など廻船が寄港するようになる。これにより商業圏が拡がり全国的な取引が可能となり、新たな豪商が台頭した。この北前船との交易によって、尾道は広島城下より繁栄し広島藩の台所と呼ばれるようになった。 主な取り扱い品は以下のとおり。 他から尾道へ尾道から他へ米 -- 諸藩の年貢米は江戸時代前期には大阪まで運ばれて売られていたが、江戸中後期になるとはそれが崩れ瀬戸内海沿岸の港町でも売られるようになった。広島藩は尾道と宮島(廿日市市)御手洗(呉市)の3港のみ他国米の取引を公的に認可したため、広島での米取引の重要拠点であった。 金肥 -- 干鰯・油粕など 海産物 -- 鰊・昆布・鮭・数の子・鰤など 穀類 -- 大麦・大豆など 材木 -- 米 -- 広島藩の年貢米の積出港であった。広島藩ものは質量共に良く、大阪でブランド米として流通した。 塩 -- “備後塩”と呼ばれた主力交易品。備後ものは元々中世から畿内で需要が高かったことに加えて、近世から北海道や北陸で特産品となった塩干魚の加工に必要となったため、更に需要が高まった。江戸時代初期、広島藩により竹原(竹原市)で塩田が整備されたが廻船での交易で需要量が増えていくと更に商人たちによって尾道周辺の島々で塩田が整備され、“浜旦那”と呼ばれた塩田の地主・経営者が誕生している。 畳 -- “備後表”。福山藩・広島藩ともに公用表(幕府への献上表など)として生産しており、民間流通分である商用表は広島藩では尾道のみで出荷されていた。なお畳表・塩・魚介・他国米の取引などは、福山藩の主要港である鞆と競合関係にあった。 綿、綿製品 -- 広島藩は新田開発とともに殖産興業を推進した。干拓で造成された土地には塩に強い綿花を植えることが奨励されたことにより、綿製品の生産量が上がり特産品“安芸木綿”として流通した。加工しない状態でも取引されていた。 石材加工品 - 尾道で中世から盛んだった石工はこの時代にも名産品だった。また荷を降ろした北前船は、帰りは軽くなるためバラストとして大きな花崗岩を積んでおり、そこで石工職人は船で一緒に移動して当地で加工した。 錨 -- 刀鍛冶は中世から盛んだったが、太平の世となった江戸時代に平和産業への転換が図られた。その中で“尾道錨”という名産品を生み出した。北前船の錨にも用いられた。 酢 -- 尾道での酢の製造は安土桃山時代に堺から職人を呼び寄せて始まっている。尾道三山は良質な水を生み出していたこと、そして江戸時代に入り年貢米が大量に流通していたことから、これを原料として“尾道酢”が特産品となった。 酒 -- 酢と同様に、良質な水と大量に流通していた米を原料に酒が製造された。ただし近世においてこの付近の酒造の中心地は三原であった。 長江にある畳表問屋街跡。 尾道造酢。天正10年(1582年)創業。 吉源酒造場。安政元年(1854年)創業。 尾道は山にも海にも通じた便利な場所となり、日本各地から様々な商品を運んだ船がやってきて、尾道の商人は中継交易して他の地へ売りさばいていった。港の活性化とともに、豪商によって沿岸部の浚渫と埋立および築港が進められた。大規模な埋立は広島藩営でも行われ、できた土地は商人に払い下げられるが藩は工事費より高く売ったため差額は藩財政を潤した。港湾利用者のため花街が形成された。北前船の荷主や船頭を問屋が接待するのに用いられ、たくさん北前船が来た時には芸者が足りなくなり、しかもこれがたびたびあったという。 こうして、海沿いが港湾施設、平地が西国街道沿いを中心に商家・町家、そして尾道三山の斜面側に神社仏閣、とゾーン分けがこの時代に定まり、街道から北の斜面地の寺社そして南の海をつなぐ小路がいくつもでき、町割りの多くが現在でも尾道の町でそのまま引き継がれている。 江戸時代中期になると市場経済の拡大により尾道は更に活況し新興豪商が台頭するも、古い商人との対立が増え秩序が乱されるようになった。そして尾道の東隣になる福山藩の港・鞆との競合も激しくなっていった。それに伴い尾道は港として信用が落ち停滞するようになる。藩は尾道のこの状況を危惧した。元文5年(1740年)、第13代尾道奉行平山角左衛門が着任すると、流通機構の改革を進めた。ちょうど町民により港の拡張要望が出されていたころで、平山は着任早々藩の事業として「住吉浜」埋立工事を行っている。平山自ら陣頭指揮に当たったこと、人夫に賃金を与えたことから、多くの人がこの工事に参加したため、すべての工事を50日間という短期間で終えている。その他にも“問屋役場”を設立されそれまで慣例化していた掟を問屋掟として明文化、株仲間を藩公認とした。明和元年(1764年)広島藩札の価値が暴落し商業活動が困難となると、商人たちにより資金融通機関“問屋座会所”が設立された。 尾道水道を縦断する渡船の最古の記録は、寛政から文化年間(1789年から1817年)に“兼吉渡し”が出来たものになる。これは現在の尾道渡船にあたる。 一方で、泰平の世となり海賊の心配がなくなったことに加え廻船の操船技術の向上により、陸地側を通る“地乗り”航路から瀬戸内海中央部を通る“沖乗り”航路が主流となっていくと、御手洗や倉橋(呉市)など島嶼の港町の取引量が上がった。こうなると広島藩は交易港としての尾道を軽視するようになる。また19世紀に入ると広島藩は領内の特産品を買い上げ大阪で売る専売制政策を始めると同時に特産品の流通統制を始めると、商人の淘汰がすすんだ一方で多角経営化に成功した豪商が現れた。ただ藩の統制はのちに藩内にハイパーインフレを招いてしまい、藩の金融経済は悪化した。 文化4年(1807年)悪病が流行する(ベッチャー祭りの起源)。 広島県立文書館所蔵の『青木茂旧蔵文書』内に文化5年から文政13年(1808年-1830年)尾道の組頭が旅人の滞在願いをまとめた帳面が残っている。それによると大坂三郷からの行商人が最も多く、次いで備中・播磨・安芸とつづき、遠くでは長崎・越後・飛騨・江戸からも来ていた。上方からは本の行商、植木屋、浄瑠璃・座敷噺などの芸能者が多いため、様々な上方文化が尾道に伝播していたことになる。 豪商の寄進により寺院は最盛期で81カ寺が造影されていたという。多くの寺社は尾道に観光客を呼び寄せた。現在では25カ寺が点在する。 御袖天満宮の55段の石段と随神門。門は享保年間、石段は江戸時代に作られたもので最上段以外は1本石の花崗岩。『転校生』の重要なシーンで登場する。天神祭はこの神社の例祭になる。 住吉神社。元々は浄土寺境内にあり、寛保元年(1741年)平山角左衛門が住吉浜を増築した際に移し港の守護神とした。角左衛門を祀る平山霊神社が合祀されている。この神社にある注連柱は国内最古のもの。例祭がおのみち住吉花火まつり、また尾道みなと祭の会場でもある。 厳島神社(八坂神社と合祀)。八坂神社は元々常称寺境内にあり、神仏分離令により移され厳島神社と合祀された。祇園祭は八坂神社の例祭になる。 現在の主な寺社。
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