埋立工事とは? わかりやすく解説

埋立工事 (昭和30年代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:28 UTC 版)

東浜 (福岡市)」の記事における「埋立工事 (昭和30年代)」の解説

昭和30年代東浜における公有水面埋立については、工場用地用途、「東浜町」の地区名で、1959年昭和34年3月12日埋立免許を受け、1960年昭和35年5月13日第1工区90,491.93m2)の、1961年昭和36年7月31日第2工区61,722.12m2)の埋立工事(合計152,214.05m2)が竣工したまた、東浜ふ頭」の地区名港湾施設用地及び工場用地用途1943年昭和18年9月20日埋立免許を受けていた地区については、1961年昭和36年7月31日第1工区133,630.64m2)の、1964年昭和39年6月13日第2工区49,566.44m2)の埋立工事(合計183,197.08m2)が竣工した。これらの造成地には、西部ガスをはじめ各種食料品セメント飼料等の工場進出し臨海工業地帯形成していった。また、一角には石炭輸送専用施設としての埠頭整備され当時博多港背後にあった糟屋炭田福岡炭田粕屋炭田)の海上輸送を担うようになったまた、この一連の埋立事業進められる中、1960年昭和35年3月港湾管理者である福岡市により、昭和36年度を初年度とする「第一次博多港港湾整備5ヵ年計画」が策定されており、東浜土地利用はこの計画沿ったものとなっている。

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埋立工事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 04:33 UTC 版)

浅野埋立」の記事における「埋立工事」の解説

大正2年1913年8月に埋立工事が始まった大正3年1914年3月4日に、鶴見埋立組合鶴見埋築株式会社になった資本総額350万円株式総数内訳浅野財閥33%、安田財閥23%、渋沢財閥23%、横浜貿易商三人7%、徳川家・その他14%、株主総数26人、社長浅野総一郎専務大川平三郎渋沢財閥)・白石元治郎浅野財閥)、取締役安田善三郎安田財閥)・安倍兵衛横浜貿易商)・太田清蔵徴兵保険専務)・八十島親徳渋沢財閥)、監査役渡辺福三郎横浜貿易商)・尾高次郎渋沢財閥)・山本三郎徳川家家令)だった。英国から輸入した350馬力サンドポンプ船が埋立工事を行った能力不足だったので、急遽750馬力サンドポンプ船を建造して、大正4年1915年1月から現場投入する優れた性能発揮した輸入船も350馬力から750馬力改造すると満足すべき成果をあげた。川崎田島村大島新田では臨海湿地十万坪の埋立大正4年1915年4月完成し大正6年1917年5月浅野セメント工場完成した日本鋼管大株主若尾幾造から川崎の若尾新田買収し埋め立て工場建設し大正3年1914年4月から営業開始した鶴見では二五千坪を旭硝子売却し大正5年1916年4月には工場完成した浅野造船所予定地では同年7月から埋立工事と工場建設同時進行行い浅野総一郎毎朝六時半に工事現場現れ工事急がせ大正6年1917年11月には工場全体完成した造船所の隣には大正7年1918年6月浅野製鉄所工場完成した大正8年1919年11月十三五千坪の埋立予定地を石川島造船所売却し大正11年1922年11月埋立引き渡し完了した大正9年1920年)に鶴見埋築は東京湾埋立改称した同年下期にはライジングサン石油一万五千坪を売却し翌年下期引き渡したこの頃に、石川島造船所が二坪を日本石油転売し、東京湾埋立十二四千坪を芝浦製作所売却した大正12年1923年)に三井物産重油部)に一万千五百坪を売却した大正12年1923年9月1日関東大震災埋立地工場被害受けたが、東京比べる軽度なのだった大正13年1924年下期には五隻のサンドポンプ船をフル稼働して埋立急いだ同年5月に、埋立地一望する丘にある浅野綜合中学校浅野中学校・高等学校)の校庭に、大きな銅像完成した工事現場視察する浅野総一郎の姿を象ったのだった浅野総一郎は「ここなら死んで俺の庭が見下ろせる」と喜んだ大正14年1925年)には三坪を東京電力売却し一万五千坪を日本電力引き渡した同年下期には完成埋立地百万坪を突破し売却急増し埋立会社創業以来最高の利益記録した大正15年1926年上期には約一万六千坪を日清製粉に、三坪を東京電力に、一万五千坪を日本電力に、四千五百五十坪を鶴見臨港鉄道に、三万千二百坪を東京電燈所有権移転登記し、千二百六十ニ坪をライジングサン石油売却した同年下期には埋立工事・錨地運河浚渫航路拡張防波堤建設修理護岸工事橋梁工事同時に行い埋立浚渫土量が開業以来最高になった。昭和2年(1927年)上期には作業量の最高記録更新し、約二坪を住友合資売却し6月には百五十四万坪の埋立工事が全て完了した同年下期には約五万五千坪を三井物産に、二坪を鉄道省所有権移転登記した。昭和3年1928年6月防波堤錨地橋梁など付帯施設完成して浅野埋立完了した同年下期には南満州鉄道土地引き渡し完了したが、三井物産営業開始し日清製粉工場完成した埋立地は、浅野総一郎から浅野町安田善次郎から安善町白石元治郎から白石町大川平三郎から大川町浅野総一郎家紋の扇から扇町末広町(扇は末広がり)と名付けられた。

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埋立工事 (昭和40年代)

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東浜 (福岡市)」の記事における「埋立工事 (昭和40年代)」の解説

激増する建設資材(砂、砂利)等の撒物の集約化荷役合理化を図るための岸壁敷、野積場等の用途、「東浜ふ頭」の地区名で、1971年昭和46年8月31日埋立免許を受け、同年10月に埋立工事に着手し1976年昭和51年4月19日面積80,147.22m2の埋立工事が竣工した

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埋立工事 (平成一桁)

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東浜 (福岡市)」の記事における「埋立工事 (平成一桁)」の解説

東浜ふ頭地区は、大正4年から昭和51年行われた面積約52.2ヘクタールの埋立工事がほぼ完成し、すでに埠頭としての機能有していたが、都市ガス原料LPG液化石油ガス)及びナフサからLNG液化天然ガス)へ転換することなどのために新たな用地が必要となってきていたため、福岡市はこの地区再編成再開発を図るために、新たな埋立工事を計画し港湾計画変更として、1988年昭和63年3月24日付で計画変更内容福岡市公報公示した。埋立工事については、博多港開発株式会社が、「東浜地区」の地区名で、1989年平成元年6月19日埋立免許を受け、第1工区1989年平成元年7月13日に、第2工区1992年平成4年)に着手し1991年平成3年5月23第1工区94,323.51m2)の埋立工事が竣工し1994年平成6年12月26日第2工区172,935.04m2)の埋立工事が竣工した埋立後の土地利用についは、野積場用地保管施設用地のほかに、1997年平成9年7月1日に「西部ガス冷熱冷蔵物流センター」、2000年平成12年4月1日に「福岡市食肉市場」などの建築敷地とされた。

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埋立工事 (昭和60年代以降)

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香椎浜ふ頭」の記事における「埋立工事 (昭和60年代以降)」の解説

船舶大型化貨物コンテナ化進展対応するため、博多港初め本格的なコンテナターミナル整備を行うとともに良好な港湾環境創出市民ニーズ対応したスポーツ・レクリエーション施設用地整備を行うため、香椎パークポート地区整備が行われた。当該地区において昭和60年代行われた第I期公有水面埋立については、、福岡市1987年昭和62年11月27日に「香椎パークポート」の地区名埋立免許を受け、1988年昭和63年1月6日工事着手し1992年平成4年6月30日第1工区ふ頭用地314,367.61m2)の、1995年平成7年5月12日に第2の1工区港湾関連用地緑地526,491.49m2)の、1998年平成10年3月27日に第2の2工区緑地407,875.13m2)、合計面積で1,248,734.23m2の埋立工事が竣工した

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埋立工事 (平成一桁)

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香椎浜ふ頭」の記事における「埋立工事 (平成一桁)」の解説

第II期については、国(第四港湾建設局)が1987年昭和62年11月27日に「香椎パークポート」の地区名埋立免許を受け、1994年平成6年3月31日西側岸壁ふ頭用地、7,362.48m2)の、1996年平成8年12月19日北側岸壁ふ頭用地、2,865.04m2)、合計面積10,227.52m2の埋立工事が竣工したまた、福岡アイランドシティ地区本体同時に埋立免許を受けた地区が2箇所あり、福岡市1994平成6年4月11日に「アイランドシティ第1工区」の地区名埋立免許を受けた香椎パークポート内の地区ふ頭用地68,696.96m2)については、1996平成8年10月25日に、国(第四港湾建設局)が1994平成6年4月11日同じくアイランドシティ第1工区」の地区名埋立免許を受けた地区ふ頭用地、3,759.96m2)については、1998平成10年3月31日に、合計面積72,456.92m2の埋立工事が竣工した

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埋立工事 (昭和30~40年代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:31 UTC 版)

荒津」の記事における「埋立工事 (昭和3040年代)」の解説

西公園下の埋立てについては、工場用地用途、「西公園下石センター第1工区」及び「西公園下石センター第2工区」の地区名で、1938年昭和13年4月20日福岡市埋立免許を受け、福岡市が埋立工事に着手していたが、戦後になって遅々として進捗せず、1955年昭和30年)を迎えて埋立て未完成のままであったこの頃福岡市は、経済成長に伴い急激に石油輸入増加する一方博多港石油関係施設須崎地区長浜船溜等に散在し一般港湾施設石油施設混在は危険であるため、西公園下の埋立地保安港区とし、危険物集約することを検討していたものの、具体化できない状況にあったこの様状況の中で、1955年昭和30年)に日本石油株式会社現在のENEOS株式会社)がこの場所に進出決めたことが契機となって他社進出することになり、ここに西公園下の埋立て本格化した。当該地区埋立てについては、1957年昭和32年3月5日第1工区143,833.38m2)の、1958年昭和33年2月1日第2工区100,560.72m2)の埋立工事(合計244,394.10m2)が竣工したこれにあわせ当該地の西側に、博多港開発株式会社石油センター増設を図るため、貯油施設用地用途、「西公園荒津二丁目」の地区名で、1964年昭和39年5月7日埋立免許を受け、同年11月28日に埋立工事(81,149.38m2)が竣工したまた、福岡市は、西公園下石センター隣接して下水処理場用地用途、「中部下水処理場第1工区」及び「中部下水処理場第2工区」の地区名で、1961年昭和36年3月6日福岡市埋立免許を受け、1964年昭和39年4月7日第1工区38,417.77m2)の、1970年昭和45年12月1日第2工区16,767.84m2)の埋立工事(合計55,185.61m2)が竣工した

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埋立工事 (昭和40年代)

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箱崎ふ頭 (福岡市)」の記事における「埋立工事 (昭和40年代)」の解説

箱崎地先における箱崎ふ頭最初公有水面埋立については、1969年昭和44年9月11日埋立免許を受け、同年10月7日に埋立工事に着手し1971年昭和46年12月28日第1工区(1,279,538.32m2)の、1973年昭和48年11月14日第2工区(1,105,661.88m2)及び第3工区(457,465.07m2)、合計面積で2,842,665.27m2の埋立工事が竣工した。埋立工事竣工後の造成地福岡市区域編入され一部区域除き現在の箱崎ふ頭一丁目から六丁目までとなっている。なお、埋立地の字汐井浜側基部には、当時東側にあった箱崎漁港代替施設として、「箱崎船だまり」が港湾施設外郭施設係留施設水域施設)として築造された。

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埋立工事 (昭和50年代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:28 UTC 版)

箱崎ふ頭 (福岡市)」の記事における「埋立工事 (昭和50年代)」の解説

箱崎ふ頭は、流通機能持った新しい形態の埠頭として昭和40年代誕生したが、世界海上輸送はすでに海上コンテナ主流時代突入しており、博多港においてもコンテナ化対応する必要が生じていた。その必要に応えるために、1982年昭和57年11月1日箱崎ふ頭5号岸壁コンテナ化整備完了し供用開始後は国際海上コンテナ取扱量急増していったが、阪神地区等を結ぶ内航コンテナ船等の増加見込まれ箱崎ふ頭における岸壁及び埠頭用地拡充強化課題となっていた。そこで、福岡市は、箱崎ふ頭10号岸壁北側において、1980年昭和55)年8月14日公有水面埋立免許を得て同年10月13日に埋立工事に着手し1983年昭和58年11月2日面積32,832.68m2の埋立工事が竣工したまた、木材港としては、社会経済状況変化から、水面貯木主とする南洋材減少し陸上貯木主とする北米材の急激な増加に伴い陸上野積場が不足していくものと考えられたため、新たに物揚場及び埠頭用地のために、水面貯木場東側当時水面整理上及び水面貯木場の各一部)において、1980年昭和55年8月14日公有水面埋立免許を得て同年10月13日に埋立工事に着手し1983年昭和58年11月5日面積90,477.61m2の埋立工事が竣工した

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埋立工事 (平成一桁及び10年代)

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箱崎ふ頭 (福岡市)」の記事における「埋立工事 (平成一桁及び10年代)」の解説

箱崎ふ頭木材港については、さらに水面貯木から陸上貯木への転換による機能強化を図る必要があり、また、福岡市内のごみ発生量急増対応する必要があるために、博多港開発株式会社は、1994年平成6年10月31日公有水面埋立免許を得て1995年平成7年1月27日に埋立工事に着手し1997年平成9年4月21第1工区156,716.13m2)の埋立工事が竣工し2001年平成13年1月26日第2工区165,149.34m2)の埋立工事が竣工したその後第1工区一部には「クリーンパーク・臨海」が建築された。

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