埋立工事 (昭和30年代)
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「東浜 (福岡市)」の記事における「埋立工事 (昭和30年代)」の解説
昭和30年代の東浜における公有水面埋立については、工場用地の用途、「東浜町」の地区名で、1959年(昭和34年)3月12日に埋立免許を受け、1960年(昭和35年)5月13日に第1工区(90,491.93m2)の、1961年(昭和36年)7月31日に第2工区(61,722.12m2)の埋立工事(合計で152,214.05m2)が竣工した。また、「東浜ふ頭」の地区名、港湾施設用地及び工場用地の用途で1943年(昭和18年)9月20日に埋立免許を受けていた地区については、1961年(昭和36年)7月31日に第1工区(133,630.64m2)の、1964年(昭和39年)6月13日に第2工区(49,566.44m2)の埋立工事(合計で183,197.08m2)が竣工した。これらの造成地には、西部ガスをはじめ各種の食料品、セメント、飼料等の工場が進出し、臨海工業地帯を形成していった。また、一角には石炭輸送の専用施設としての埠頭が整備され、当時博多港の背後にあった糟屋炭田(福岡炭田、粕屋炭田)の海上輸送を担うようになった。また、この一連の埋立事業が進められる中、1960年(昭和35年)3月に港湾管理者である福岡市により、昭和36年度を初年度とする「第一次博多港港湾整備5ヵ年計画」が策定されており、東浜の土地利用はこの計画に沿ったものとなっている。
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埋立工事
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大正2年(1913年)8月に埋立工事が始まった。大正3年(1914年)3月4日に、鶴見埋立組合が鶴見埋築株式会社になった。資本総額350万円、株式総数七万株、内訳は浅野財閥33%、安田財閥23%、渋沢財閥23%、横浜の貿易商三人7%、徳川家・その他14%、株主総数26人、社長は浅野総一郎、専務は大川平三郎(渋沢財閥)・白石元治郎(浅野財閥)、取締役は安田善三郎(安田財閥)・安倍幸兵衛(横浜の貿易商)・太田清蔵(徴兵保険専務)・八十島親徳(渋沢財閥)、監査役は渡辺福三郎(横浜の貿易商)・尾高次郎(渋沢財閥)・山本安三郎(徳川家家令)だった。英国から輸入した350馬力のサンドポンプ船が埋立工事を行ったが能力不足だったので、急遽750馬力のサンドポンプ船を建造して、大正4年(1915年)1月から現場に投入すると優れた性能を発揮した。輸入船も350馬力から750馬力に改造すると満足すべき成果をあげた。川崎の田島村大島新田では臨海湿地十万坪の埋立が大正4年(1915年)4月に完成し、大正6年(1917年)5月に浅野セメント工場が完成した。日本鋼管は大株主の若尾幾造から川崎の若尾新田を買収し埋め立てて工場を建設し、大正3年(1914年)4月から営業を開始した。鶴見では二万五千坪を旭硝子に売却し、大正5年(1916年)4月には工場が完成した。浅野造船所予定地では同年7月から埋立工事と工場建設を同時進行で行い、浅野総一郎が毎朝六時半に工事現場に現れて工事を急がせ、大正6年(1917年)11月には工場全体が完成した。造船所の隣には大正7年(1918年)6月に浅野製鉄所の工場が完成した。大正8年(1919年)11月に十三万五千坪の埋立予定地を石川島造船所に売却し、大正11年(1922年)11月に埋立・引き渡しを完了した。大正9年(1920年)に鶴見埋築は東京湾埋立に改称した。同年下期にはライジングサン石油に一万五千坪を売却し、翌年の下期に引き渡した。この頃に、石川島造船所が二万坪を日本石油に転売し、東京湾埋立は十二万四千坪を芝浦製作所に売却した。大正12年(1923年)に三井物産(重油部)に一万四千五百坪を売却した。大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で埋立地の工場は被害を受けたが、東京に比べると軽度なものだった。大正13年(1924年)下期には五隻のサンドポンプ船をフル稼働して埋立を急いだ。同年5月に、埋立地を一望する丘にある浅野綜合中学校(浅野中学校・高等学校)の校庭に、大きな銅像が完成した。工事現場を視察する浅野総一郎の姿を象ったものだった。浅野総一郎は「ここなら、死んでも俺の庭が見下ろせる」と喜んだ。大正14年(1925年)には三万坪を東京電力に売却し、一万五千坪を日本電力に引き渡した。同年下期には完成埋立地が百万坪を突破し、売却も急増し、埋立会社は創業以来最高の利益を記録した。大正15年(1926年)上期には約一万六千坪を日清製粉に、三万坪を東京電力に、一万五千坪を日本電力に、四千五百五十坪を鶴見臨港鉄道に、三万千二百坪を東京電燈に所有権移転登記し、千二百六十ニ坪をライジングサン石油に売却した。同年下期には埋立工事・錨地運河浚渫・航路拡張・防波堤建設修理・護岸工事・橋梁工事を同時に行い埋立浚渫土量が開業以来最高になった。昭和2年(1927年)上期には作業量の最高記録を更新し、約二万坪を住友合資に売却し、6月には百五十四万坪の埋立工事が全て完了した。同年下期には約五万五千坪を三井物産に、二万坪を鉄道省に所有権移転登記した。昭和3年(1928年)6月に防波堤・錨地・橋梁などの付帯施設が完成して、浅野埋立は完了した。同年下期には南満州鉄道に土地引き渡しを完了したが、三井物産が営業を開始し、日清製粉工場が完成した。埋立地は、浅野総一郎から浅野町、安田善次郎から安善町、白石元治郎から白石町、大川平三郎から大川町、浅野総一郎の家紋の扇から扇町と末広町(扇は末広がり)と名付けられた。
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埋立工事 (昭和40年代)
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「東浜 (福岡市)」の記事における「埋立工事 (昭和40年代)」の解説
激増する建設資材(砂、砂利)等の撒物の集約化、荷役の合理化を図るための岸壁敷、野積場等の用途、「東浜新ふ頭」の地区名で、1971年(昭和46年)8月31日に埋立免許を受け、同年10月に埋立工事に着手し、1976年(昭和51年)4月19日に面積で80,147.22m2の埋立工事が竣工した。
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埋立工事 (平成一桁)
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「東浜 (福岡市)」の記事における「埋立工事 (平成一桁)」の解説
東浜ふ頭地区は、大正4年から昭和51年に行われた面積約52.2ヘクタールの埋立工事がほぼ完成し、すでに埠頭としての機能を有していたが、都市ガスの原料をLPG(液化石油ガス)及びナフサからLNG(液化天然ガス)へ転換することなどのために新たな用地が必要となってきていたため、福岡市はこの地区の再編成、再開発を図るために、新たな埋立工事を計画し、港湾計画の変更として、1988年(昭和63年)3月24日付で計画変更の内容を福岡市公報で公示した。埋立工事については、博多港開発株式会社が、「東浜地区」の地区名で、1989年(平成元年)6月19日に埋立免許を受け、第1工区は1989年(平成元年)7月13日に、第2工区は1992年(平成4年)に着手し、1991年(平成3年)5月23に第1工区(94,323.51m2)の埋立工事が竣工し、1994年(平成6年)12月26日に第2工区(172,935.04m2)の埋立工事が竣工した。埋立後の土地利用についは、野積場用地、保管施設用地のほかに、1997年(平成9年)7月1日に「西部ガス冷熱冷蔵物流センター」、2000年(平成12年)4月1日に「福岡市食肉市場」などの建築敷地とされた。
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埋立工事 (昭和60年代以降)
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「香椎浜ふ頭」の記事における「埋立工事 (昭和60年代以降)」の解説
船舶の大型化や貨物のコンテナ化の進展に対応するため、博多港で初めて本格的なコンテナターミナルの整備を行うとともに、良好な港湾環境の創出、市民ニーズに対応したスポーツ・レクリエーション施設用地の整備を行うため、香椎パークポート地区の整備が行われた。当該地区において昭和60年代に行われた第I期の公有水面埋立については、、福岡市が1987年(昭和62年)11月27日に「香椎パークポート」の地区名で埋立免許を受け、1988年(昭和63年)1月6日に工事に着手し、1992年(平成4年)6月30日に第1工区(ふ頭用地、314,367.61m2)の、1995年(平成7年)5月12日に第2の1工区(港湾関連用地、緑地526,491.49m2)の、1998年(平成10年)3月27日に第2の2工区(緑地、407,875.13m2)、合計面積で1,248,734.23m2の埋立工事が竣工した。
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埋立工事 (平成一桁)
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「香椎浜ふ頭」の記事における「埋立工事 (平成一桁)」の解説
第II期については、国(第四港湾建設局)が1987年(昭和62年)11月27日に「香椎パークポート」の地区名で埋立免許を受け、1994年(平成6年)3月31日に西側岸壁(ふ頭用地、7,362.48m2)の、1996年(平成8年)12月19日に北側岸壁(ふ頭用地、2,865.04m2)、合計面積で10,227.52m2の埋立工事が竣工した。 また、福岡アイランドシティ地区本体と同時に埋立免許を受けた地区が2箇所あり、福岡市が1994(平成6年)4月11日に「アイランドシティ第1工区」の地区名で埋立免許を受けた香椎パークポート内の地区(ふ頭用地、68,696.96m2)については、1996(平成8年)10月25日に、国(第四港湾建設局)が1994(平成6年)4月11日に同じく「アイランドシティ第1工区」の地区名で埋立免許を受けた地区(ふ頭用地、3,759.96m2)については、1998(平成10年)3月31日に、合計面積で72,456.92m2の埋立工事が竣工した。
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埋立工事 (昭和30~40年代)
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「荒津」の記事における「埋立工事 (昭和30~40年代)」の解説
西公園下の埋立てについては、工場用地の用途、「西公園下石油センター第1工区」及び「西公園下石油センター第2工区」の地区名で、1938年(昭和13年)4月20日に福岡市が埋立免許を受け、福岡市が埋立工事に着手していたが、戦後になっても遅々として進捗せず、1955年(昭和30年)を迎えても埋立ては未完成のままであった。この頃、福岡市は、経済成長に伴い、急激に石油の輸入が増加する一方、博多港の石油関係施設が須崎地区や長浜船溜等に散在し、一般の港湾施設と石油施設の混在は危険であるため、西公園下の埋立地を保安港区とし、危険物を集約することを検討していたものの、具体化できない状況にあった。この様な状況の中で、1955年(昭和30年)に日本石油株式会社(現在のENEOS株式会社)がこの場所に進出を決めたことが契機となって他社も進出することになり、ここに西公園下の埋立ては本格化した。当該地区の埋立てについては、1957年(昭和32年)3月5日に第1工区(143,833.38m2)の、1958年(昭和33年)2月1日に第2工区(100,560.72m2)の埋立工事(合計で244,394.10m2)が竣工した。 これにあわせ当該地の西側に、博多港開発株式会社が石油センターの増設を図るため、貯油施設用地の用途、「西公園下荒津二丁目」の地区名で、1964年(昭和39年)5月7日に埋立免許を受け、同年11月28日に埋立工事(81,149.38m2)が竣工した。 また、福岡市は、西公園下石油センターに隣接して、下水処理場用地の用途、「中部下水処理場第1工区」及び「中部下水処理場第2工区」の地区名で、1961年(昭和36年)3月6日に福岡市が埋立免許を受け、1964年(昭和39年)4月7日に第1工区(38,417.77m2)の、1970年(昭和45年)12月1日に第2工区(16,767.84m2)の埋立工事(合計で55,185.61m2)が竣工した。
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埋立工事 (昭和40年代)
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「箱崎ふ頭 (福岡市)」の記事における「埋立工事 (昭和40年代)」の解説
箱崎地先における箱崎ふ頭の最初の公有水面埋立については、1969年(昭和44年)9月11日に埋立免許を受け、同年10月7日に埋立工事に着手し、1971年(昭和46年)12月28日に第1工区(1,279,538.32m2)の、1973年(昭和48年)11月14日に第2工区(1,105,661.88m2)及び第3工区(457,465.07m2)、合計面積で2,842,665.27m2の埋立工事が竣工した。埋立工事竣工後の造成地は福岡市の区域に編入され、一部の区域を除き、現在の箱崎ふ頭一丁目から六丁目までとなっている。なお、埋立地の字汐井浜側の基部には、当時東側にあった箱崎漁港の代替施設として、「箱崎船だまり」が港湾施設(外郭施設、係留施設、水域施設)として築造された。
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埋立工事 (昭和50年代)
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「箱崎ふ頭 (福岡市)」の記事における「埋立工事 (昭和50年代)」の解説
箱崎ふ頭は、流通機能を持った新しい形態の埠頭として昭和40年代に誕生したが、世界の海上輸送はすでに海上コンテナが主流の時代に突入しており、博多港においてもコンテナ化に対応する必要が生じていた。その必要に応えるために、1982年(昭和57年)11月1日に箱崎ふ頭5号岸壁のコンテナ化の整備が完了し、供用の開始後は国際海上コンテナ取扱量が急増していったが、阪神地区等を結ぶ内航コンテナ船等の増加も見込まれ、箱崎ふ頭における岸壁及び埠頭用地の拡充強化が課題となっていた。そこで、福岡市は、箱崎ふ頭10号岸壁の北側において、1980年(昭和55)年8月14日に公有水面埋立免許を得て、同年10月13日に埋立工事に着手し、1983年(昭和58年)11月2日に面積で32,832.68m2の埋立工事が竣工した。また、木材港としては、社会経済状況の変化から、水面貯木を主とする南洋材が減少し、陸上貯木を主とする北米材の急激な増加に伴い、陸上野積場が不足していくものと考えられたため、新たに物揚場及び埠頭用地のために、水面貯木場の東側(当時の水面整理上及び水面貯木場の各一部)において、1980年昭和55年8月14日に公有水面埋立免許を得て、同年10月13日に埋立工事に着手し、1983年昭和58年11月5日に面積で90,477.61m2の埋立工事が竣工した。
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埋立工事 (平成一桁及び10年代)
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「箱崎ふ頭 (福岡市)」の記事における「埋立工事 (平成一桁及び10年代)」の解説
箱崎ふ頭の木材港については、さらに水面貯木から陸上貯木への転換による機能強化を図る必要があり、また、福岡市内のごみ発生量の急増に対応する必要があるために、博多港開発株式会社は、1994年(平成6年)10月31日に公有水面埋立免許を得て、1995年(平成7年)1月27日に埋立工事に着手し、1997年(平成9年)4月21に第1工区(156,716.13m2)の埋立工事が竣工し、2001年(平成13年)1月26日に第2工区(165,149.34m2)の埋立工事が竣工した。その後、第1工区の一部には「クリーンパーク・臨海」が建築された。
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