埋立地の売却
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浅野総一郎が昭和5年(1930年)11月9日に死去すると、浅野泰治郎が財閥総帥となり、東京湾埋立の社長も兼務した。同年上期に三万坪を昭和肥料に、五千坪を早山与三郎(早山石油社長)に売却したが、下期には四千坪しか売れなかったので無配になった。昭和6年(1931年)11月末に五十三万坪の埋立地が売れ残っていた。昭和7年(1932年)上期には埋立地がほとんど売れずに赤字に転落した。昭和8年(1933年)以降は景気回復により、浅野造船所・日本鋼管・早山石油・三菱石油・日本石油・京浜コークス・日本タンカーに埋立地を売ったが、小面積の売却ばかりで赤字を抜け出すのがやっとだった。昭和10年(1935年)に、日本フォードが十一万坪購入を申し入れてきたが、浅野良三(浅野泰治郎の弟)が陸軍に呼び出されて「神国日本の国の一部をアメリカに売るとはまかりならん」と売買中止を勧告された。フォードは日本人を雇用して自動車技術も提供してくれるし、戦争になっても工場は日本に残るから国益になると、浅野良三は反論したが聞き入れられなかった。さらに商工省もこの売却に反対した。その時たまたま陸軍大臣が満州に赴いたので、帰国までは売却しないように陸軍大臣と商工大臣が正式な通達を出した。ところが陸軍大臣が満州から帰国すると、7月24日に浅野良三は陸軍と商工省に無断で売買契約を締結して、陸軍を激怒させた。NHKは浅野良三の行為を国際関係改善を意図したものと解釈しているが、東亜建設工業(東京湾埋立の後身)は経営改善の為と考えている。昭和14年(1939年)ごろには、日本鋼管・鉄道省・三井物産・住友合資会社・日本電力・東京電燈・日清製粉・ライジングサン石油・スタンダードヴァキューム石油・日本石油・東京瓦斯・浅野造船所・京浜コークス・芝浦製作所・旭硝子・三菱石油・三菱鉱業・昭和肥料・早山石油・日本タンカー・旭石油・東京中山鋼業・化工機製作所・日本鋳造・東京製鉄・鶴見窯業・愛国石油・自動車工業・日本フォード・日本漁網船具・内外石油・日満倉庫・徳永硝子製造所・東京湾埋立がこの埋立地に立地して大きな工業地帯を形成した。このように浅野埋立が京浜工業地帯の元になったので、浅野総一郎は「京浜工業地帯の父」と呼ばれている。
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