埋立・築港
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 22:55 UTC 版)
埋立築港事業は浅野財閥の専売特許のようなもので、他の追随を許さない。 門司築港 明治22年設立。福岡県知事安場保和が企てた築港事業に、渋沢栄一(渋沢財閥)、安田善次郎(安田財閥)、大倉喜八郎(大倉財閥)、浅野総一郎(浅野財閥)が同額づつ出資して設立した。明治32年に築港工事完成と同時に、会社は解散した。門司区内の本町・桟橋通り・港町・西海岸通り一帯はこの時にできた。 東亜港湾工業 明治45年設立の鶴見埋立組合が、大正3年鶴見埋築株式会社になり、さらに東京湾全体の埋め立てを目指して大正9年東京湾埋立会社に改名し、昭和7年に請負工事の港湾工業を一時分離したが、昭和19年に合併して東亜港湾工業に改名(現:東亜建設工業)。大東亜共栄圏のどこでも仕事をするので「東亜」にしたと思われる。大正2年の鶴見埋築創立時、株式総数7万株、浅野財閥2万3千株、安田財閥1万6千株、渋沢財閥8千株、徳川家8千株。大正6年に神奈川県足柄上郡神縄村に落合水力発電所を建設し鶴見埋立地に電力を供給する。大正14年12月に電気事業を東京電力の東京湾電気株式会社に譲渡。大正3年から昭和2年の13年間に、民間事業で、横浜市鶴見区から川崎市の海岸に、154万坪の埋立地を造り出した。その町名に功労者の名前などを賦す許可を得て、浅野町(浅野総一郎)、安善町(安田善次郎)、白石町(白石元治郎)、大川町(大川平三郎)、扇町(浅野総一郎の家紋)、末広町(扇は末広がり)と命名した。社章は3羽の鶴、浅野総一郎・安田善次郎・渋沢栄一で3羽、鶴見から鶴。 京浜運河会社 大正6年に宇都宮金之丞らが設立した会社。東京横浜間に運河を掘る計画。浅野財閥東京湾埋立会社の計画と工事区域が重複するので、神奈川県が両者の提携を勧告。大正9年、浅野財閥が過半数の株を買収し、浅野総一郎が社長になる。ところが昭和11年に内務省が京浜運河計画を神奈川県営にすることを決定し、浅野財閥の工事申請を却下。既に昭和9年に漁業補償契約を結んで、工事準備も完了していた浅野財閥にとって晴天の霹靂だった。浅野系会社の従業員二百数十人がトラックや艀で県庁に押しかけて、「県に仕事をやられては、飯の食い上げだ」と騒いだ。京浜運河会社は行政訴訟を起こした。その結果、神奈川県が全ての工事を京浜運河会社に発注する事で和解した。昭和12年11月に京浜運河会社は東京湾埋立会社に合併された(合併契約は既に大正15年に結ばれていた)。 橘樹水道 昭和2年に橘樹郡鶴見町 に設立。浅野造船所が大正7年から自営していた水道を、鶴見埋立地の他社にも開放したもの。鶴見の山の手に水源の貯水池3箇所を所有。昭和4年営業開始、水道公営化政策により、昭和12年に横浜市に買収される。 室蘭埋築 昭和2年に設立。昭和3年に室蘭市海岸の埋立許可を得るが、不況で工事延期。昭和11年に本格的埋立工事を開始。工事完了を急ぐため、昭和12年に東京湾埋立会社に移管。昭和13年に埋立工事完了。浅野興業に合併される。 尼崎築港(尼ヶ崎築港) 昭和4年、浅野財閥と山下汽船が共同で設立。関西の尼崎の埋立。東京湾埋立の姉妹会社。昭和17年にはこの埋立地が、日本有数の工場地帯になった。昭和23年に46万坪で埋立を中止。社章は「尼」を円形にしたもの。 小倉築港 昭和6年設立。大正12年から浅野小倉製鋼所が行っていた、北九州の小倉海岸埋立を引き継ぐ。小倉市前面の海岸を埋め立て模範的都市を建設、また運河を浚渫、防波堤・港・桟橋を建設して小倉港を北九州の要港にする工事を行う会社。昭和26年小倉興産に改名。 港湾工業 昭和7年に東京湾埋立から分離独立した埋立の請負工事をする会社、昭和19年に東京湾埋立と合併して戻り、東亜港湾工業になる。(現:東亜建設工業) (大)東京湾土地 昭和13年設立、水面の埋立と不動産の売買・賃貸・その他の利用。
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