北前船の荷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 03:23 UTC 版)
下り荷(北国方面)に関しては以下の通りである。 蝦夷地の人々への飲食品(米や酒、砂糖)、瀬戸内海各地の塩(漁獲物の塩漬けに不可欠)、日常生活品(衣服や煙草、紙、瀬戸内沿岸産の蝋燭)、藁製品(縄や筵)など。また、近畿圏では木綿(大和絣など)・菜種(菜の花)など高級商品を栽培するために、北風家が介入して葛下郡築山村(当初広大な大谷村の一部)で「ぐろ田」法、「くろ田」法、「上げ田」法、「島畠」法、「島畑」法と言われる水田の土あげをして栽培する方法が開発された。司馬遼太郎の「菜の花の沖」の風景は、築山村近隣である、司馬遼太郎の母方の當麻での幼年時代の記憶がベースになっていると言われている。「ぐろ田」法は大和から河内に当初広まり、やがて畿内一円に広まり、北前船の下り荷の内容を助けることとなった。栽培に上り荷の干鰯や鰊粕(商品作物栽培のための肥料)などが大量消費されたことは言うまでもない。 上り荷(畿内方面)は殆どが海産物で、下り荷ほど種類は多くない。鰊粕(商品作物栽培のための肥料)、数の子、身欠きニシン、干しナマコ、昆布、干鰯など。特に昆布は大坂から薩摩藩を経て、琉球王国経由で清にまで密輸出された。富山藩には「薩摩組」と呼ばれる担当の部署があり、清からは漢方薬の材料を輸入して、富山の売薬を支えた。北海道、越中国、薩摩国、琉球(沖縄)、清までのルートを現代では「昆布ロード」と言うことがある。
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