石山本願寺時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 06:46 UTC 版)
この時証如は大坂にいたが、このまま寺基を移し石山本願寺時代が始まった。山科本願寺から持ち出された祖像が転々とし、ようやく翌天文2年(1533年)7月25日に鎮座した。この年が築城年にされているのは、この鎮座の時期が理由とされている。 この間も晴元と石山本願寺との戦いは続き、木沢長政や三好長慶らが石山本願寺攻めに加わり、石山本願寺では坊官の下間頼盛が指揮官として赴任し、紀伊の一向門徒衆にも援軍を要請したりしていたが、天文4年(1535年)11月末、山科本願寺の戦いから約4年後、ようやく両者で和議が成立する。下間頼盛は一揆を扇動した罪で兄の下間頼秀と共に本願寺から追放され、後に暗殺された。 細川晴元らとの抗争の中で石山本願寺は寺領を拡大し、城郭の技術者を集め、周囲に堀や土塁を築き、塀、柵をめぐらし「寺内町」として防備を固めていった。このように石山本願寺は証如時代にすでに要害堅固な城郭都市に至ったと考えられている。 証如から顕如の時代となり、西日本、北陸地域の一向宗徒の勢力と、富の蓄積も拡大していった。イエズス会所属ガスパル・ヴィレラの永禄4年(1561年)8月の手紙に、 「 日本の富の大部分は、この坊主の所有である。毎年、はなはだ盛んな祭り を行い、参集する者ははなはだ多く、寺に入ろうとして門の前で待つ者が、開くと同時にきそって入ろうとするので、常に多くの死者をだす。(中略)夜になって坊主が彼らに対して説教をすれば、庶民の多くは涙を流す。朝になって鐘を鳴らして朝のお勤めの合図があると、皆、御堂に入る。 」 —ガスパル・ヴィレラの手紙 と報告されるほど本願寺は多数の門徒とその門徒がもたらす財力を有していたことがわかる。 証如期には中央権門や戦国大名家への外交も展開されており、中央権門では天皇・公家衆へ接近を強め、東国の戦国大名家では甲斐国の武田氏、相模の北条氏康・北条氏政 親子と親交を結ぶ。そして三条公頼の三女教光院如春尼を、法敵ともなっていた六角定頼の息子六角義賢の、続いて細川晴元の養女としたうえで顕如の正室に迎え入れ、戦国大名と同盟を結んでいき基盤の安定を整えて、石山本願寺の絶頂期をむかえていた。
※この「石山本願寺時代」の解説は、「石山本願寺」の解説の一部です。
「石山本願寺時代」を含む「石山本願寺」の記事については、「石山本願寺」の概要を参照ください。
- 石山本願寺時代のページへのリンク