石山開城後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 04:49 UTC 版)
天正8年(1580年)に本願寺が織田信長と和睦してから、雑賀では次第に鈴木孫一と土橋若大夫が対立するようになった。天正10年(1582年)1月23日、鈴木孫一は土橋若大夫を暗殺した。孫一は事前に信長に連絡して内諾を受けており、織田信張とその配下の和泉衆・根来衆の応援を得て土橋氏の粟村(現和歌山市)の居館を攻めた。土橋派は若大夫の遺児5人を立てて抗戦したが、2月8日には土橋平次・平尉(平丞)兄弟は逃亡、根来寺泉識坊 は討ち取られるなど雑賀の内紛は孫一の勝利で決着した。信長の後ろ盾を得た孫一主導の下、雑賀衆は織田信孝の四国攻めに船百艘を提供するなど、織田氏との関係を強めていく。
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