石山本願寺への移転と幕府との和睦
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「享禄・天文の乱」の記事における「石山本願寺への移転と幕府との和睦」の解説
大坂御坊を「大坂本願寺」と改めて、新たな根拠地とした証如は、蓮淳に代わって門徒達を指揮していた下間頼秀・頼盛兄弟に防戦を命じたが、12月には味方だった摂津国衆がすべて晴元方に寝返ってしまい、それらに富田教行寺を攻め落とされ、続いて本願寺もまた細川・六角・法華一揆連合軍に包囲された。しかし翌天文2年(1533年)に入ると挽回し、2月10日に晴元がいた堺を陥落させ、晴元を淡路へ追いやった。また、細川高国の弟・晴国や三好元長派であった波多野元清ら晴元に恨みを抱く勢力と連携し、一時包囲を解くことに成功する。 だが、それは逆に第12代将軍足利義晴から、本願寺討伐令という大義名分を晴元へ与えるだけに終わった。3月に摂津伊丹城を包囲した一向一揆は、3月29日に法華一揆を率いた木沢長政に打ち破られると、4月7日に淡路から戻った晴元の摂津池田城への入城で巻き返されてしまった。一進一退を続けた戦況だったが、6月18日に山城で晴元の武将薬師寺国長が細川晴国によって討ち取られたことで、晴元は本願寺との和睦を考え、次いで双方に和睦の気運が高まったところで、6月20日に三好元長の遺児千熊丸(後の三好長慶)を仲介者として和睦した。
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