石山本願寺への移転と幕府との和睦とは? わかりやすく解説

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石山本願寺への移転と幕府との和睦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 08:02 UTC 版)

享禄・天文の乱」の記事における「石山本願寺への移転と幕府との和睦」の解説

大坂御坊を「大坂本願寺」と改めて、新たな根拠地とした証如は、蓮淳に代わって門徒達を指揮していた下間頼秀・頼盛兄弟防戦命じたが、12月には味方だった摂津国衆がすべて晴元方に寝返ってしまい、それらに富田教行寺攻め落とされ続いて本願寺もまた細川六角法華一揆連合軍包囲された。しかし翌天文2年1533年)に入ると挽回し2月10日晴元がいた堺を陥落させ、晴元淡路追いやった。また、細川高国の弟・晴国や三好元長であった波多野元清晴元恨みを抱く勢力連携し一時包囲を解くことに成功する。 だが、それは逆に第12代将軍足利義晴から、本願寺討伐令という大義名分晴元与えるだけに終わった3月摂津伊丹城包囲した一向一揆は、3月29日法華一揆率いた木沢長政打ち破られると、4月7日淡路から戻った晴元摂津池田城への入城巻き返されてしまった。一進一退続けた戦況だったが、6月18日山城晴元武将薬師寺国長細川晴国によって討ち取られたことで、晴元本願寺との和睦考え次いで双方和睦気運高まったところで、6月20日三好元長遺児千熊丸(後の三好長慶)を仲介者として和睦した

※この「石山本願寺への移転と幕府との和睦」の解説は、「享禄・天文の乱」の解説の一部です。
「石山本願寺への移転と幕府との和睦」を含む「享禄・天文の乱」の記事については、「享禄・天文の乱」の概要を参照ください。

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